《特別企画「ズートピア」KEBAB編》


 私がその映画を見たのは、モントリオールへと向かう長く辛いフライト中のことだった。話題の映画ではあったが、どうも、いい年した男が一人で見るもんではない、とのプライドから、私はこれが飛行機でやっていなかったら映画館に行ってまでは見なかっただろう。その映画、というのは、ディズニーピクサーの最新作「ズートピア」である。実を言うと、この映画は私の友人で、TODOのメインライターのsabotenから感想を聞いて、みようと思い立った。というのも、彼はこの映画のラストに納得が行かなかったのだという(その話についてはsabotenくんが書いてくれることだろう。だから、今回は二人で一つの映画を語る、という企画なのだ。ここでは語るまい)。よくない、と言われると、非常に見たくなる。それが私の悲しい性。そういうわけで、私は恥を忍んでこの映画を見た。

 

「ズートピア」の主人公はうさぎのジュディ。すべての動物が平等に暮らすとされている「ズートピア」の郊外に住んでいる。彼女は幼い頃から警察官を夢見ているが、うさぎは体が小さいので、警察官にはなれない、と両親からも、周りからも思われて育った。事実、うさぎの警察官は今まで一人もいなかった。だが彼女は厳しい訓練の末、なんとか警察官になる。ところが、だ。配属された警察署では、肉食動物だけが誘拐される事件が起きているのにもかかわらず、彼女は駐車違反の取締にしか出させてもらえない。

 そんな中で彼女は、狐のニックに出会う。ニックも、ジュディと同じように、狐には実現できないとされていた、「ボーイスカウト」のようなものへの入団をしようとして陰湿ないじめにあい、それ以来、「どうせ狐は狡猾にしか生きれない。望めないものは望まない」と詐欺師をしていた。ひょんなことからジュディはニックが誘拐事件の証拠へつながることを知っていると知り、脅迫まがいの方法でタッグを組むことになる。この映画ではそんな二人の活躍を、ハードボイルド小説のようなミステリタッチで描いている。推理ものとしては、随分と伏線が張られており、まずまずの出来だったと思う。

 

 そんな一面がある一方で、この映画は封切られた時から、「実は深い」と宣伝されていた。実際、見てみると、この映画はかなり大きなテーマを扱っていることがわかる。それは、「差別がないと歌われた社会に残る差別」だ。これが意識され始めたのは、おそらく、数年前、アメリカでの白人警官による黒人殺傷事件が次々と明るみに出た時だろう。1960年代の公民権運動以降、公的に平等になったものの、無意識レベルに染み付いた差別が未だ拭われないのである。無意識レベルというのは、白人警官が職務質問をする時に黒人対象が多かったり、黒人相手の場合銃の引き金を引く件数が非常に多かったり、ということである。それは、「こいつは黒人だから」と思う段階よりも前に起こってしまう。だからこそ恐ろしい。

 この映画はそんな大きな問題に真っ向から向かっている。単に差別ではない。「無意識レベル」の差別なのだ。これから観る人のために言わないでおくが、一連の誘拐事件の引き金になるのは、「無意識レベル」の差別であり、主人公のジュディも自らの中にある狐への「無意識レベル」の差別に気づいてしまうシーンがある。そして、誘拐事件に絡む黒幕は、そんな無意識レベルの差別を逆に利用し(内容に触れないように説明するのが非常に難しいのだが、事件の引き金となる無意識レベルの差別が肉食動物から草食動物へと向かっているのに対して、黒幕が利用しようとするのは草食動物の感じる肉食動物への無意識の恐怖なのである)、意識的な差別にしてしまおうとする。そしてこの映画が挑戦的だ、と私が思ったのは、主人公が自分の無意識レベルの差別に気づくシーンを描くことで、誰しもがそれを持っているということを表現したことだ。そういう意味で、この映画は特別な「差別なんて無縁よ」という主人公の話ではなく、ごく普通の人の立場に立っていると言える。

 

 この問題は非常に根深い。そして白人と黒人だけにとどまらない。例えば女性差別もそうだし、あるいはヨーロッパで問題となっている移民問題などもそうである。主に外見の違いなどから、差別するつもりはなくても、どこかでそれは起こってしまうのである。例えば日本の街中を歩いている時、つい、白人の人がいたら見てしまわないだろうか。黒人でもいい。あるいはムスリムでもいい。私はたまにある。別に差別しているわけではないのだが、どうしても、自分と違う存在としてみてしまう。それだけなら無害かもしれない。だが、例えば夜中にアジア人とすれ違っても何も思わないのに、黒人とすれ違ったら少しビクッとしてしまったら、それは差別の始まりかもしれない。だがそれは起こってしまう。無意識的に、だ。現代の悪人とは、それを意識的な差別に持ち込んでしまおうとする人かもしれない。

 

 この映画は、無意識的なレベルの差別を完全なる悪だと断罪するものではない。それに気付くこと、そして相手を肌の色や大きさなどで見ず、その人個人としてみることで乗り越えられると伝えてくれているように私は思う。ジュディは、ニックと接するうちに、彼がただの狡猾で信用ならない狐ではなく、正義の心を持った男だと理解する。そして彼女は自由になるのだ。無意識レベルの差別は、ニックを括らずに見ることで乗り越えられてゆく。ニックも、体当たりでハンディキャップを乗り越えようとするジュディに感化されてゆく。そしてそんなジュディは、警察署長の心も動かしてゆくことになる。そして仲間として認められるようになるのである。

 この映画の主題歌「トライ・エブリシング」には、こんな歌詞がある。

 

「間違えることで やっとわかることがあるから」

Nobody learns without getting wrong

 

 間違うことは、罪ではない。大事なのはそこからどうするのかだ。大事なのは、学ぶことなのだ。逆に間違えずに学んだことなど、空っぽにすぎない。差別に気づくからこそ生まれる、相手を相手としてみようと思う心。これは「自分は差別などしない」という信念からは出てこない。「差別してしまう」と気づくから、「相手を見たい」と思えるのではないだろうか。

 そして、もっと言えばこの映画は、個人だけの話に限っているのではないと思う。社会全体が、この差別という問題に面と向かって取り組むことを希望しているように思えるのだ。この映画では、無意識レベルの差別が生んだ事件が、いつしか大きくなりそうになり、それが意識的な差別へと向かいそうになってしまう。それはジュディとニックによって止められたのだが、この事件があったからこそ、今後ズートピアは理念だけではなく、しっかりと現実に向かい合うようになる、という希望とともに映画は終わっているような気がした。そう、間違えて学ぶのは、社会もそうなのである。公民権の平等、平等の理念は大事だが、もっと大事なことがある。それは、それぞれが自分の心の奥にある差別に気づき、乗り越えようとすること。それは一朝一夕には乗り越えられない。だが、何度でも、やるのだ。そう、ズートピアは求めた先にある理想郷なのである。決して建前でも、妄想でもない。希望であり、道標であり、求めるものなのだ。だからだろう。この映画が、「ジュディとニック」という名前ではなく、「ズートピア」という名前だったのは。

 

 最後のニックの「末路」など、なんとなく気に入らない点がないわけではない(もう見ている人のためにいうと、わたしは彼にはアウトローでいて欲しかったのである。彼はアウトローのまま、自由に生きて欲しかった)が、そんな大きなメッセージを込めながら、娯楽作品としても楽しめるこの映画は、「一見の価値あり」(誰だよ)と思う。非常に面白かった。ただし、あの主題歌は耳から離れなくなるので、注意されたし。

 

(記者:KEBAB)

 

歌詞は

英語版:http://www.directlyrics.com/shakira-try-everything-lyrics.html

日本語版:http://www.uta-net.com/song/206662/