《文学》佐々木の場合


 

唐突だが、私にはほぼ毎日昼夜を共にする連れがいる。しかし困ったことに、毎日顔合わせているにもかかわらずその連れとは口論が絶えないのである。それに加え口論の主な内容はほとんど毎回おなじときている。  

連れ「こうこうこういうことに悩んでるんだけど~」

私「そもそもその悩みの前提からして間違っている。本来反省し問うべき問題は~ではないか。」

おなじみの「私は解決策が欲しいんじゃなくて、悩みを聞いて欲しいだけなの!」論法である。

この論法を打開するのは非常に骨が折れる。

私からすれば、そもそもその問題に悩んでいること事態、本人が色々な問題を混在させた結果ありもしない問題を作り上げたことに要因を持っていると映るのだ。そうであれば、そんなありもしない問題は解体し解決してしまった方がいいではないか。そうすれば悩むこともなくなるだろう。こうなるわけである。

しかし相手からしてみれば、そんなことは「余計なお節介」であり、ただ話を聞いて、慰めて欲しいというわけだ。

これは困った。私の立場ではここは譲るわけにもいかない。こんな不合理なことを認めれば、その度に自らの論理では説明することのできない事象にぶち当たり、今度は私自らの方がやられてしまう。(後から振り返れば何とまあ大袈裟だが、その状況にあっては私も必死なのだ)

こんな様なことを毎度毎度繰り返していたわけだが、そんななか何気なくふと本棚から志賀直哉の『小僧の神様・城の崎にて』(新潮文庫版、短編集)を手に取り、その本の最初の短編「佐々木の場合」を読んだ。選んだ理由など長編よりも、短編の方が体にこないし、それに本の厚さがちょうど良かったからだ。別に何かを期待して読んだわけでもなく、煙草を吹かしながら、夏もそろそろ終わり秋になっていくそんな夜の情緒を味わうつもりで読んでいた。

 この物語のあらすじはざっとこんなものだろうか・・・

 

《「佐々木の場合」は、ロシアから七年ぶりに日本に戻ってきた軍人佐々木が、同郷の年下の友人「君」に自身の過去と、それに起因する現在の苦しみを打ち明けるという態をとる小説である。佐々木の告白によれば、(作中現在から)一六年前、一九歳であった彼は郷里を出て「山田の家に書生をし」ながら士官学校の入学準備をしていた。その時、家の「お嬢さんの守っ児」で、彼より「三つ位下」の富という女性と関係を持ったという。互いの性格は非常に対照的に描かれている。佐々木が自らの欲求を追及していく自己中心的な人間として描かれているのに対して、富は何に対しても弱気で、常に佐々木に対して従順に振舞っている。ところがある日、二人が逢い引きしている隙にお嬢さんが誤って焚火に転落し大火傷を追ってしまう。自責の念に苦しんだ富は、このままでは肩の「肉の上がる見込みはない」お嬢さんに自身の尻の肉を提供した。一方佐々木は士官学校の体格試験への影響を考え、山田の家を一人黙って逃げ出してしまう。

時は経ち、(作中現在から)「一週間前」、今は「大使館付き」の大尉となった佐々木は、一六年ぶりに「偶然銀座通りでお嬢さんを連れた富を見掛け」る。一六年間、富に対する責任から妻ももらわず、富のことを思い続けていた佐々木は、富との関係を新たにしようと手紙や電話で接触を図ろうとするが、富からは断られてしまう。佐々木にとっては、「大使館付き」となった今の自分の身の上は世間的には「幸福」なものであって、対して富の方は「女として不幸な境遇に居る」と思い込んでいる。それ故、佐々木は自らが富をお嬢さんへの責任から解放し、幸福にしてやろうと考えているのだ。しかし実際には、富からしてみれば今は「少しも不幸ではない」のであって、お嬢さんのお付きとしてのあり方に満足している。「今は尼のやうな気持ちで」いて、お嬢さんに対し佐々木との関係を悔やみ、「自分はもう如何な事があっても再び男との関係は作るまいと決心している」というのである。佐々木は、自身と富との道徳観(佐々木の言葉を借りれば「総てが余りに紋切型」)の隔たりを前に、最早富を説得する術を持たず苦悩している。》

 

・佐々木のエゴイズム

最初私は、佐々木に対して共感をいだきつつも何とまあジコチューな奴だ程度にしか感想は持っていなかったのだが、作品の終盤にさしかかるにつれ私の内奥には表現し得ぬ影の様なものが渦巻いていた。

「佐々木の場合」は佐々木による自分への告白という形で文章が構成されている。それ故、その告白の部分は終始佐々木自身の一人称での回想が主である。従って読者は必然的に佐々木の視点からこの回想を追認していくことになるのだが、読み進めていくうちにこの視点を維持することができなくなっていく。

この物語はエゴイズムの挫折の物語として理解することができる様に思う。佐々木はお嬢さんへの責任から解放されないでいる富を救おうとする。しかしその仕方はあまりにエゴイスティックなものなのだ。エゴイズムは非常に強力である。佐々木にとってお嬢さんの事件は既に解決がなされている。それはこの作品において巧妙になされている。佐々木にとってお嬢さんは、自分と富の関係を邪魔する存在であり、お嬢さんもまた佐々木のことを嫌っている。また事件が起きた当初、佐々木は士官学校への入学試験を備えており、それを理由に逃げ出した。そして最終的には大尉に至るほど出世している。佐々木においては逃げ出したという行動を正当化するだけの要素が十分すぎるほど揃っているのだ。そのような状態で佐々木は富への責任を果たそうとし、富を説得しようとしている。佐々木にとっては全てが自己のエゴイズムの内で完結しているのだ。逃げ出した責任を果たそうと、何年も妻を迎えることもせず、出世し日本に帰ってきた際に富を説得し自分が幸福にしてやり、責任を果たしている気になる。うまい具合に綺麗な物語として、説明できてしまう。しかし、そのエゴイズムは富の道義心の前に挫折するのである。

 責任とは引き受けようとして引き受けられるものだろうか。確かに、テレビや新聞などでは毎日のように政治家に対して「説明責任を果たせ!」「政治家としての責任を負え!」といった言説は耳にする。その場合に意味するところの責任とは職業的な「役割」としての責任であろう。しかしその意味での責任とこの「佐々木の場合」で示されている「道徳的責任」とは必ずしも同じものではない。次のように問い直すことができよう。道徳的責任とは引き受けようとして引き受けられるものだろうか、と。もしそうなら、責任とは引き受けないことも可能なものとなってしまうのではないだろうか。先の役割としての責任であれば、その責任を果たせないのであればその役割を放棄する(辞めさせられる)といったことが可能である。では道徳的責任の場合はどうであろうか。仮に佐々木のような仕方で責任を引き受けることが可能であるならば、責任とは自らの欲求を実現するための道具のようなものではないだろうか。佐々木にとって富への責任を果たすということは、自らの人生を彩る装飾のようなものに思える。

 

・富という女の道義心

ところでまだ一つ重大な疑問が残っていることに気づく。それはなぜエゴイズムは挫折したのかという疑問だ。私が感じたあの影の正体は何だったのだろうか。

私にはこの責任の問題とエゴイズムの挫折という問題は密接に関わりあっているように思われる。そしてこの問いの鍵は、佐々木とお嬢さんとの間で苦悩し耐えていた富という一人の女の道義心にあると思うのだ。

作中において富は非常に堅苦しい道義心を持った女として描かれている。今時こんな古臭い道徳観をもった女はそうそうみない。そしてそれがあまりに正論であり「紋切り型」なのだ。

この作品はしばしば佐々木≒かつての志賀直哉として解釈され、かつてのエゴイスティックな自分に対する反省、エゴイズムそのものの超克とみなされることがある。そしてそれに依ってか、エゴイスト佐々木に対する紋切り型の道義心の富という構図のもと両者の間の道徳観の相違、佐々木があまりに富の道徳観に価値を置いていないという点が問題とされる。作品の最後には佐々木からの告白を聞いている「君」の視点からこの佐々木のエゴイズムに対して反省が加えられており、読者は最終的にこの佐々木の視点から隔たりを持つことになる。確かにこの作品の主眼はそこにあるのだろう。

しかし私はこの富という女の心持ちにこそエゴイズムからの超克が垣間見えるような気がするのだ。富とは単なる堅苦しい紋切り型の道義心をもった女なのだろうか。現代においては時代錯誤の古臭い女で片付けていいものだろうか。その富の心性にはある普遍性が見出されるのではないか。

作品の最後の反省において次のように述べられている。

 

「佐々木は今その女の心をさえぎっているものは紋切型な道義心と犠牲心とで、それを取り除く事が出来れば問題は解決すると思っているらしい。そしてその道義心と犠牲心に余りに価値を認めない点が、佐々木も可哀想だが、自分には少し同情出来なかった。自分もそれらをそう高く価づけはしない。然し佐々木はそれを余りに低く見ていると思った。そして仮令消極的な動機からにしろその女が信じたことを堅く握り締めているその強さに自分はいい感じを持った。」

 

この「消極的な動機からにしろその女が信じた事を堅く握りしめているその強さ」とはどういうことだろうか。

佐々木にとってはこの不合理な道義心に縛られ、それによって自らを苦しめることが理解できなかったのだろう。故に佐々木はこの富の苦悩のもとであるもはや形骸化しているような道義心さえ解決してしまえば富を解放し救うことが出来ると思ったのだ。だが確かにその通りではないだろうか。富が素朴にその紋切り型で形だけ辛うじて成しているようなものを信じていたのならば、そのような臆見からは覚ました方が良いだろう。仮に富が信じていたとしたらエゴイズムの論理は挫折していなかったはずである。 なぜならエゴイズムの論理から語るならばその紋切り型の道義心は自らが依拠するところの必然性を失い、その道徳は崩れ去るであろうから。富は佐々木と関係を持っていたことが、お嬢さんの人生を台無しにしてしまったと思っており、だからもう二度と男と付き合うことなく、お嬢さんのために人生を尽くそうと決めている。「義」という観点からみれば極めてもっともらしいものだ。だが自らの責任をよくよく追及してみようとするならば必ずしももっともではない。お嬢さんが事故にあったのは決して佐々木と付き合っていたことに原因があるわけではないし、それ故今後他の男と付き合うべきでないともならない。それに何か今後お嬢さんに良縁があったなら、もう自分を解放してもいいではないか。それぐらい富は理解していたはずである。それでも富は自らの道義心を捨てず佐々木を拒絶した。

確かに富が意地になってエゴイズムの正当性は理解しているのにもかかわらず、それを道義心を用いて拒否したということは考えられるだろう。しかしそうだったとしても、ではなぜ富は意地になってまで道義心にしがみついたのか、富にそこまでさせるものは何だったのかを問うことは可能だろう。

・紋切り型の道義心の二重性 

私は富は決してこの道義心や犠牲心を素朴に信じていたのではないと思うのだ。そうではなく、このあまりに紋切り型の道義心や犠牲心といったものに頼らざるを得なかったというほうが正しいのではないかと思う。ここにエゴイズムの挫折の要因がある。富はお嬢さんに対して負おうにも負うことのできない責任を感じている。それはもはや負うことで解消されるような種類の責任ではなく、トラウマとでもいう形で課せられてしまったものである。富はその何とも語ることのできない負い目にあって、紋切り型の道義心や犠牲心という物語に頼らざるを得なかったのだ。そのような仕方で自らの負い目に「意味」を持たせなければ自身を保つことさえ難しかったのである。

それに富は今幸せであると語られている。それがお嬢さんの人生に対しての責任を課せられており、自らの人生をお嬢さんに犠牲にしているとしても幸せなのだ。それは、そのような仕方で自らの状況、行為に対して意味が与えられたからであり、それによって自らの「必然性」を引き受けることができたからであろう。

ここでようやく「消極的な動機からにしろその女が信じた事を堅く握りしめている強さ」というその道義心の「二重性」がどういうことなのか理解出来る。富はお嬢さんへの責任を背負って生きていくためには、その道義心にしがみつくしかなかったという意味では「消極的」なのだが、そのことによって自己として生きていくことに「意味」を見出し、その「必然性」を引き受け自覚するにいたったという点において、それは「積極的意味」を持つのであり、「強さ」なのである。

佐々木はこの道義心や犠牲心を取り除くことで富はお嬢さんへの負い目から解放され救われると考えているのであるが、事態は真逆なのだ。その道義心や犠牲心こそ富を支え生きることの基盤を担っていたのであり、逆にこの道義心や犠牲心を崩してしまえば富は生きることにもはや何の意味も見出せず、生きていくことはできないだろう。富からしてみれば、佐々木がしようとしていることは「余計なお節介」なのだ。

このような富の心性は決して富に限ったものではないだろう。人は誰しも自らの必然性を引き受けてしか生きていくことはできない。そのような内的な必然性も持っていなければ、身体活動という意味で生きていたとしても、それはもはや人の皮を被った何かであろう。例えその必然性を引き受けるきっかけがいかに偶然的な出来事や慣習といったものであれ、それを引き受けることで能動的な主体たりうるのだ。

 

 

とまあ、こんなものである。だがしかし、これを書いている現在も私たちの間では一向に喧嘩は絶えることがない

 

 

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