《哲学》時の流れに身をまかせ、あなたの色に染められ


 ここに、一人の哲学者の著作がある。その名前は、『思想と動くもの』。そしてこれを書いたのは、アンリ・ベルクソンというフランス人の哲学者である。

アンリ・ベルクソン(1859〜1941):なぜかいつも写真の撮られ方がうまい。
アンリ・ベルクソン(1859〜1941):なぜかいつも写真の撮られ方がうまい。

 フランス人とは言っても、彼を単純にそうくくるのには無理がある。というのも、彼の父親はユダヤ系のポーランド人であり、母親はアイルランド系のイギリス人だからだ。だが、彼はフランスで教育を受け、フランス語を話し、第一次世界大戦の時にはフランスの代表としてアメリカへと赴き、そして戦間期においては国際連盟の「文化協力委員会」、すなわち現在のUNESCOの前身となる委員会の議長をフランス人として勤めている。とはいえ、それを可能にしたのはおそらく、その類まれなる語学力であり、母から受け継いだ英語力であろう。語学力も、多文化の中で生まれたが故ではないだろうか。それでも彼はフランス人として、その卓越した哲学的業績からノーベル文学賞を受け、そしてフランス人として自身のユダヤ教の信仰よりも、カトリックへと接近した。だが、第二次世界大戦の軍歌が大きく聞こえ始める1938年、彼はユダヤ人迫害を知り、ユダヤ人として死ぬことを決意し、天に召された。

 さて、何故唐突に哲学者の著作などを紹介するのか。別に何故というわけはない。それは私が哲学を学んでいるからであり、学術コーナーに一つくらい哲学があってもいいと思ったからである。だが、それにしても哲学書なんて小難しい本をここで紹介するのか? それも聞いたこともない謎の哲学者の本を? そう思われた方がいるなら、その答えは明快である。というのは、この哲学者は、普通の人の思いとは裏腹に、こんなことを言ってのけた人だからである。

 

「哲学の最も大事な部分は、簡単さを求めるところなのです」

(Philosopher est une acte simple)

(P139, Henri Bergson "La pensée et le mouvant" 'L'intuition philosophique' PUF, 1934.)

 

 この言葉が述べられているのは、先ほど紹介した、『思想と動くもの』の中に収録されている、「哲学的直観」という講演録だ。これは、1911年にイタリアのボローニャで行われた講演会を本にまとめられている。

 この講演録の中で、ベルクソンがメインのテーマにしていることは、哲学にとって何が一番大切なのか、だ。それは先ほど引用した文にも込められているが、彼が主に哲学の中心に置くのは、「言葉にならないが、かといって思い出せないわけではない印象(image medeiatrice)」であり、「哲学的な直観(l’intuition philosophique)」である。なんだ、哲学は簡単だと言いながら随分難しい言葉を使うじゃねえか。そう思ったとしたら、あなたはまさにベルクソンが言いたかったことに気づいていることになる。

 ベルクソンによれば、人々は何かを感じたり、思ったりするときに、何か印象を心の中に持つ。だがそれはどうも言葉にはできない。何かを考える時だってそうだ。「こんな感じ」というのがあっても、うまく言葉にならない。その経験は誰もがしているのではないだろうか。例えば、何か提案された時、「なんか反対だな」と思うことは誰しもある。だが、どうして反対なのか、どんな風に反対なのか、代案は? と聞かれても答えられない。そうこうするうちに、「お前は非論理的なやつだ」とその反対意見は潰されてしまう。これこそ、「直観」であり、「印象」なのだ。それは論理では片付けられない何かであり、どうしようもない何かである。もし相手がかなり論理的なことを言ってきたとしても、どうしても賛成しきれない。「わかっちゃいるけどやめられない」ではないが、相手の言うことは理解できても、心の根っこの部分がどうもYESと言わないのである。例えばベルクソンもこんな、似たような例を出している。

 

一般的に受け入れられているような発想、

明白なように見える結論、

れまでは科学的だと思われていたような意見を前にした時、

『直観』は哲学者の耳元でこう一言囁くのである。

『(その発想、結論、意見は)不可能なものだ』と。

(P120, Henri Bergson "La pensée et le mouvant" 'L'intuition philosophique' PUF, 1934.)

 

 こんな、「印象」をなんとか言葉にして表現したい。強いて言うなら、そんな思いに取り憑かれているのが、哲学者である。そして、彼らは同じような思いを持つ詩人や作家たちとは違い、それをなるだけ論理的にしたいと思っている。それが高じると、どうなるのか。それこそが、「小難しい」哲学の誕生なのだ。言葉で言葉を補い、論理で論理を補う。そうするうちにわけのわからない文章が出来上がる。そして用語も出来上がる。印象に名前を与えようとすればするほど、やれ「物自体」だ、やれ「純粋悟性概念の超越論的展開」だ、やれ「脱構築」だ、やれ「実存は本質に先立つ」だ、解説なしには全くわからないものが出来上がる(もちろんのこと、それはベルクソンも例外ではない。それはきっと彼自身も気づいていただろう。そのため、ベルクソンの本を読むと、頑張って「印象」を伝えようとする努力が見える。それゆえ、彼の本のひと段落は驚くほど長くて、よくこいつにノーベル文学賞を与えたな、と思ってしまう)。そして、哲学はいつしかうわべだけになってしまう。

 だが、それは本質的ではないのだ。大事なのは、その最初の印象である。だが、それを捉えることはできない。ベルクソンはそう言い切ってしまう。ではどうしたらいいのか。彼は言う。とらえることはできないけど、近づくことならできる、と。

 

 例えばある哲学者が、何やら難しいことを言っている。哲学を学ぶ人はそれを読んで、用語を理解してゆく。その中で、「ああ、この用語は昔の哲学者が使っていた言葉と同じだ!」とか、「これはこの哲学者より前の人たちの考えとは違うぞ」とか、そういうことを理解する。だが、それは、ただただうわべだけを読んでいるにすぎない。本当に理解するというのは、その哲学者の「印象」を理解することだからだ。本当に言いたかったことはにか、本当に伝えたかったことは何か。その哲学者に共感しないといけないのだ。「ああ、それ思ったことある!」「ああ、それはわかる!」「ああ、心から納得した」と。

 ベルクソンによると、それこそが哲学と科学の違いである。科学は「分析」を重視する。例えば、いかにして天体が動くのか。いかにして物体は運動するのか。そのために科学者は正確に計測し、理論を作る。それが科学者の仕事であり、科学がここまで発展した理由でもある。もし科学が、「月は常に地球に片方の面だけをむけてまわる。だとすると、片面だけ重力を感じているのか。さぞ変な気分だろうな」などと、月に共感しようとしたら、わけがわからないことになる。神話の世界から科学へ移れたのは、物体には心がない、としっかりと線引きしたからなのだ。だが、心がある人間の作り上げた哲学を、科学のやり方でどうして学べようか。それは本当の理解ではなく、単なる、うわべの話にすぎない。だからこそ、哲学は共感しないといけない。哲学は、内面を見ないといけない。そうなると、用語やら何やらではなく、簡単さを求めないといけない。ベルクソンはそういうのである。

 

 これは哲学だけのことではないと思う。

 例えば、ある人が何かを言ったとしよう。それはあなたにとって到底理解できないことだ。だが、もしかすると、もともとの「印象」はあなたの共感出来ることかもしれない。それが言葉にできていないだけで。あなたもそういうことをしてしまうことがあるだろう。素直になれない時が。他人の考えていることは、所詮わからない。そういう人もいる。そうかもしれない、と私は思う。ただ、近づくことはできる。それこそ、ベルクソンの教えてくれることだ。そして、何かを表現する時、すなわち、心の中の印象を伝えようとする時、気にかけないといけないことを教えてくれる。

 そして、そう、共感することが哲学なら、哲学は人々に寄り添っていないといけない。だから、哲学は小難しい象牙の塔の埃をかぶったものではなく、あなたに何かを伝えてくれるものなのだ。

 

(記事:KEBAB)

 

《参考文献》

アンリ・ベルクソン『時間と自由』中村文郎訳、岩波文庫、2001年。

 Henri Bergson "La Pensée et le Mouvant" PUF, 1934.

  • 'L'intuition philosophique'
  • 'Introduction à la métaphysique'