《エッセイ》NIKIといふもの


   
    なかなか寝付けない。色々な考えが絡まり合う。頭の中身が、こんがらがる。自分が何をしているのか、よく分からなくなる。そんな時、私は自分の日記帳を開く。
   
   私の日記には二種類ある。一つは、携帯のメモ帳に残しているもの。その日あった出来事や読んだ本などを、箇条書きに近い形で記録してある。三年ほど前から毎日つけているのだが、雑なものもかなり多い。ある土曜日に至っては、
    満天☆青空レストラン 原木生キクラゲ特集
という一行の記述しかない。なんだこの男は?せめて「美味しそうだった」とか、「キクラゲを育てることは難しそう」とか、一言くらい添えて欲しい。この日、男はキクラゲを見て何を思ったのだろうか?それを知る術は、もはやない。

   もう一方は、大学ノートに書いているもの。先述の「日記帳」である。こちらは、毎日つけているわけではない。とてつもなく楽しかった日や、ちょっぴり気分が沈んだ日。気が向いたらノートを開く。鉛筆をガリガリと削ったら、あとは思ったことを書き連ねるだけ!書き終わると、少しだけページを捲ってみる。
   ノートの内容を読み返すことも愉快だけれど、それ以上に私が見るのは「筆跡」だ。何かを決意した日には、それなりに綺麗な字。もうどうにでもなれ!と自暴自棄になった時には、見るに堪えない酷い字。千鳥足でおぼつかない字は、酔っ払った時に書いたものだ。

   私はなぜ日記を書くのか?これに対して、様々な答え方できるだろう。備忘録としての役割を持たせるためということもあるが、それ以上の理由があるように思う。
    雑然とした日々を、自らの言葉でまとめるため。時間の流れに対して、少しばかりの抵抗をするため。一日の中から選び取った幾つかのことを、自分の宝箱に収めるため。
   あるいは、「過去の男」「未来の男」と問答をするため。
        
    日記を捲ると、それまであまり気付かなかった考えの変化などにも目が留まる。例えば数年前の私は「まだ生きているのに死ぬ時のことを考えるなんて、悲しい。ただ生きてさえすればいいじゃないか」というようなことを言っている。現在はそうは思わない。生と死はコインの裏表、〔如何に死ぬか〕を考えることは、〔如何に生きるか〕を考えることにつながるのではないだろうか。
   ノートの中にいる自分は、なんだか、別の男のように思える。私は、その「過去の男」が語りかけてくる言葉を聴く。彼の言葉に答えつつ、「未来の男」=将来の自分に語りかけるために鉛筆を手に取るのだ。

    得体の知れない焦燥感に苛まれ、独りジリジリとする夜。良い話し相手になってくれるのは、ノートの中のアイツと、これからページの上に現れるであろうアイツだったりする。



(文・〆SAVA)