《エッセイ》EST! EST!! EST!!


 別に根拠はないが、「これだ!」と思う。そんな時がある。

 例えば、ある日のことだ。

 わたしは時間が不必要に開いてしまったので、西新宿界隈をほっつき歩いていた。どうして西新宿なのか。その理由は単純。あまり来たことがなかったからである。西口を抜け、歩道橋の下をくぐり、西へ西へと向かう。ゴーウエスト。公園と墓地の間を抜けたとき、わたしは「タイ国屋台料理」なる店を発見した。

 それを見た時、わたしは思った。「これだ! ここ、すごそうだ!」

 

 あのとき、どうしてあの店が気になったのかはよくわからない。いや、よく考えれば覚えがないわけではない。例えば、「タイ」とか、「屋台」とか、ちょうどあの頃懐かしくなっていたタイ旅行の思い出を想起させる言葉のせいかもしれない。あるいは、店から漏れ出ていたタイ音楽のせいかもしれない。店が狭くて、中にテーブルがボンボンとおいてあったせいかもしれないし、タイ文字のせいかもしれない。あるいは、「シンハービール」の広告かもしれない。だが、どれかのせいではなく、すべて合わさって、ごちゃ混ぜになった状態で、「これだ!」という気分になったというのが正しいのだろう。

 実はその日、わたしは本当は初台にある「ウイグル料理」の店に行こうとしていた。ウイグル料理は東京に一つしかない。そのレア感、そして中央アジア料理と言うわたしにとってはまだ未経験の場所という高揚感、それからトルコ料理が好きなので、きっと同じトルコ系民族の料理はうまいに違いないという確信から、わたしは非常にその店に行ってみたかった。だがなぜだろう。あのタイ料理屋を見た後に、歩いていると徐々に頭の中で誰かが「タイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイ……」と囁くのである。いつの間にか、わたしは恋する人間のように、ウイグル料理屋に向かいつつも、タイ料理屋に思いを寄せて行くのだった。そして、ウイグルはどうでもよくなって行った。

 あの日は、結局ウイグル料理屋は定休日で、それから令のタイ料理屋に引き返したはいいが、その店はあまりに混んでいたため、その隣の台湾料理屋で食事をとった。それでもこの経験は、非常に、わたしの記憶に残るものだった。なぜなら、「これだ!」と思ったものが心に何かを刻み付ける、そんな体験だったからだ。

 

 ジャケ買い、という言葉がある。それは先ほどの体験に似ているだろう。CD ショップで見かけたCDのジャケットを見て欲しくなる。もちろんその曲は知らないし、アーティストすら知らないことが多い。それなのにもかかわらず、なぜか気を引いて仕方がない。わたしはあまりそうなった時に、「よし買おう」となったことがない。しかし、ジャケ買いをする人は、そこで買ってしまうのである。

 ある人は、この体験を本屋ですることを、「本が呼んでいる」と表現していた。詩的で美しい表現だ。本が呼んでいる。Nature calling(トイレにいきたい)に似てなくもない。まあそれは冗談として、「取って読め!」という神の使いの声を聞いて聖書を開いたアウグスティヌスという聖人は、同じ心持ちだったのかもしれない。

 

 この気持ちは一体なんなんだろう。わたしの全身体、いや全精神が、「これだ!」と言っているような気がする。正直、正体なんてものはわからない。

 だが、こう言う正体のわからないものに接した時、わたしたちは時に、「理性」的な判断を重視してわけのわからない呼び声を無視してしまう。「そんなテキトーに決めちゃ駄目だ」とか、「金がもったいない」とか、「時間がない」とか、である。わたしはよくそうしてしまう。

 だが思うに、こう言う気持ちに忠実に生きるのが一番いいのである。これは自分の今まで息的な時間とか、好きになってきた人や物事を、すべてふまえた上での、「これだ!」という感覚だ。そりゃ時には間違うが、これに従って見るのも悪くはない。

 

 だからもっと、こう言う声に従いたい。臆病にならずに、どんどん何かをしてゆこう。わたしはそう、最近になって思うのだった。

 

(記者:KEBAB)