《映画》ALICE



    自らの意思で動く、剥製のうさぎ。
    その体はもろく、すぐに破れてしまう。
    裂けた部分から漏れ出てくるのは、おがくず。
    うさぎは、破けた腹部から懐中時計を取り出す。
    おがくずに塗れた時計をペロペロと舐めて綺麗にし、
    時刻を見て、こう言う。「大変だ!遅刻しちゃう!」
     
   ルイス・キャロル(本名:チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン)作の児童小説『不思議の国のアリス』が刊行されてから、およそ150年。「知人の少女のために即興で考えた物語」が基になっているというこの作品は、国境を越えて多くの人々に親しまれている。
   そしてそれは、日本においても例外ではない。その昔、私もアリスの絵本を読んでもらったものだ。中学生だった頃の教科書にも「Alice and Humpty Dumpty」という単元があった。友達と「あ〜いむ  は〜んぷてぃ〜だ〜んぷてぃ〜」とふざけあったことを、よく覚えている。また近年では、アリスの世界観を取り入れた雑貨店「水曜日のアリス」も大人気という話だ。ある人の話によれば、店内は大混雑。買い物客の熱気により「蒸し器の国のアツイッス」だったという……。

   その世界的児童小説を原作とする劇場映画といえば、ウォルト・ディズニーによる長編アニメーション『ふしぎの国のアリス』を思い浮かべる人も多いだろう。時計うさぎをはじめとする、可愛らしいキャラクターたち。表情豊かな主人公・アリス。そして、色鮮やかな不思議の国。しかし、今回紹介する『ALICE』は、そのイメージとは大きく異なる。『ALICE』の方を一言で表すならば、私は「不気味」「具合が悪い時に見る夢」「半年分の悪夢をギュッと凝縮したもの」などの言葉を挙げる(いずれも褒め言葉)。その理由は、ルイス・キャロルの原作が持つ「不条理さ」に重点が置かれ、かつ、その部分が限りなく増幅されているからではないだろうか。時計うさぎは剥製、主人公のアリスはほぼ無表情。そして不思議の国はというと、どことなく色がくすんでいる。

  『ALICE』(原題『Něco z Alenky』[アリスの何か])は、1988年の作品。監督は、チェコの芸術家ヤン・シュヴァンクマイエルである。彼は自らを「戦闘的シュルレアリスト」と呼び、独創的な映像やコラージュ作品、彫刻、版画などを製作している。今作は、ストップモーション・アニメーション(いわゆるコマ撮り)と実写との組み合わせによって製作された映像作品だ。全編に漂う「不気味なのにどこか懐かしい感じ」は、ストップモーション・アニメのカクカクした動きによるところも大きいと思われる。

   あらすじは、あえてここには書かないことにしよう。私が紹介するのは、この映画に登場する「不思議なもの」の数々である。広大な荒れ地にポツンと置かれた机、引き出しの中に敷き詰められた安全ピン、アリスの頭の上で料理を始めるネズミ。釘の刺さったパン、画鋲の入ったジャム、床を嚙り尽くす靴下。全体的に色褪せている不思議の国では、何の脈絡もなしにこのような物が現れる。その「訳の分からなさ」は、浅い眠りの時に見る夢のようだ。
   さて、お気づきだろうか。上記の「不思議なもの」の中には、チクチクするものが多く含まれているのだ。シュヴァンクマイエルはなぜ、これらを画面内に散りばめたのだろうか?
   
 『ヤンシュヴァンクマイエルとチェコ・アート』(赤塚若樹 2007年 未知谷)39、40ページにはこう書かれている。

  「当時映画製作が禁じられていたシュヴァンクマイエル(筆者注:前衛的作品を是としないチェコスロバキア社会主義政権下の当局により、シュヴァンクマイエルは映画製作を1972〜1979年の間禁止されていた)は、このときにみずからの芸術活動において『触覚』がもちうる可能性に気づき、ふたたび映画がつくれるようになる一九七九年までの七年間『触覚の実験』に没頭していた。これ以後シュヴァンクマイエルの想像力は触覚に特徴づけられるようになり、いまでは彼の創作活動において『触ること』が本質的な役割をはたすようになっている。」

   触覚と痛覚はどちらも皮膚感覚であり、これら二つは密接な関係にある。釘だらけのパンなどは、たとえ画面上に映るだけでも「これを触ったら……」ということを観客の頭の中に浮かび上がらせる。皮膚感覚が、視覚によって呼び起こされる。
   仮に正しい文脈の中で釘や画鋲などが用いられていれば、我々はそれほど驚かないだろう。ところがこの作品の中では、チクチクするものが(というより、チクチクするもの「も」)不条理な使われ方、ありえない使われ方をしている。ともすると、私たちが恐怖を感じるような用いられ方である。小さな瓶詰めのジャムに画鋲が数個混入している……などといった状況は、想像すればギョッとせざるを得ない。
  この「ギョッとすること」が、何よりも重要なのだ。何故なら、その後には二つの「心」が生じ得るからである。一つは、恐怖心。そしてもう一つは、好奇心。観客たちは、「次は何が現れるのだろうか、また『チクチク』だろうか?」と怯える。それと同時に、画面内にある〔不思議の国〕へと引き込まれていくのだ。
         

   日々の暮らしに疲れたら、『ALICE』を観てほしい。そこには、紛うことなき夢の世界が広がっている(高熱にうかされているときの夢のようだとしても)。そして、観終わった後に考えてみてほしい。原題である「アリスの何か」とは、一体何であるのか。
   アリスの「夢」、アリスの「物語」、それとも……?


(文・〆SAVA)