《エッセイ》笑わない神は、ただ微笑む


 年齢が二十歳を超えてもギャグが好きだ。ウィットにとんだものもすきだけれど、どちらかといえば「くだらない」物が好きで、年々その傾向へ偏りつつある。その中で、「くだらない」笑いについて自分なりに分析をすることができた。最初に「くだらない」漫画がおこす「くだらない」笑いについて語ることから始めよう。

 読者諸賢は『ボボボーボ・ボーボボ』というぶっとんだ作品を知っているだろうか?週刊少年ジャンプに二〇〇一年から二〇〇七年まで連載していた、僕の幼き頃の愛読書である。これがもうとんでもなくはちゃめちゃで「くだらない」。まず主人公がおかしい。金髪のアフロヘア―にグラサン、丈の短い青いカッターシャツを下着なしではおり、胸毛がもじゃもじゃとはみ出している。彼は鼻毛神拳伝承者というわけのわからない肩書をもち、文字通り鼻毛を伸ばすことで闘う。彼は全世界の人間をスキンヘッドにしようともくろむ毛狩り隊と呼ばれる集団を相手に、鼻毛を伸ばして、ときには鼻毛を乗りこなして(書いている私も意味がわからない)超現実的な激闘を繰り広げる。ただし毛狩り隊の設定を作者が思い出すのは最終話付近であり、それまでは相手どころか作者もなぜボーボボ一行が襲撃されるのか理解していない。とにかくこの漫画には、既存のギャグ漫画のプロットを焼け野原にするようなフレーズが登場する。いくつか紹介しよう。

 

「ガネメッッ!」

他でもないメガネのことである。突如敵との戦闘中に理性が崩壊したボーボボのセリフ。装着しているサングラスをさかさまにつけなおす。

 

「ナントカカントカパトローナム」

 ご存じハリー●ポッターより。首領パッチというハジケリスト(とにかく陽気な人々をさす?)がろうそくを掲げて発した一言。相手は人間であり、当然効果はない。

 

 「みんなありがとう」「神に感謝」「くっ…ボーボボに負けた…」「順当な順位ですね…」

週刊少年ジャンプをはじめ、少年漫画では人気投票が行われることが多い。人気投票の結果は扉絵で描かれることが多く、上位のキャラクターがその順位についてコメントを残すことが一つの習慣となっている。ボーボボにおいてもそれは例外ではなく、わずか連載第回にして人気投票結果の公表が行われる(極秘裏に行われたという建前のギャグであり、実際は行われていない)。まだ物語は序盤の序盤であり、登場人物は主人公のボーボボ以外はモブキャラを除いてほとんど登場していないため、九位から二〇位がすべてボーボボ。扉絵に描かれるキャラクターも当然全員ボーボボであり、感謝しているのも悔しがっているのも納得しているのもボーボボである。

 

 『ボボボーボ・ボーボボ』で読者が体験するギャグはどれも理不尽で、超現実的であり、まったくそこに意味はない。そこはノリと勢いが支配する世界であり、ツッコミ役兼ヒロインのビュティちゃんが過労死寸前まで追い込まれるほど、初めから最後までノンストップでボケが連射される。

 この漫画を見るとき、僕は主人公ボーボボを含む登場人物の言動・行動、そこに権力を与える世界設定、ときには笑っている自分自身に可笑しみを感じて笑う。この漫画にウィットを見出して可笑しみを感じる人がいれば、それはそれで興味深いが、僕はこの漫画が醸し出している「くだらなさ」に笑ってしまう。それではこの「くだらなさ」とは一体なんだろうか。

 私はボーボボのギャグから感じる「くだらない」笑いを、「純粋で」「安全な」「非常識な」という観点から分析してみた一つ一つそれらの要素を説明しよう。

 もしもボーボボが、人を笑わせなければ死んでしまう病気にかかっていたり、鼻毛が自然と伸びることにコンプレックスを持っていて悩み抜いた末に死んでしまうのならば、僕はここに「くだらなさ」だけを見出さないと思う。シーンを見て笑う間に、「気の毒」「これは誰の比喩なんだ」「感動した」「なんて素晴らしいことを思いつくんだ」という声が「くだらなさ」の笑いに入り込んできてしまうからだ。また、僕たちが「くだらない」と笑う瞬間、ボーボボがそのような悲観的な悩みを持っていると想定したり、必然的に人間が迎えるであろう死をそこから汲み取ろうとはしない。なぜならボーボボは僕らと同じ「人間」ではないからだ。それはキャラ化され単純化された記号である。彼の行動が世界情勢をかき乱したり、誰かの自死の原因に結びつくことはない。それはその意味において「純粋」なものなのである。そしてボーボボは漫画のキャラクターであるから僕たちに危害を加えることはなく、彼らの非常識であるはずの世界が当然のように展開されていく事実とそのスピードに笑ってしまう。

 

 「くだらない」と僕たちが笑うとき、笑う対象は単純化されてキャラ化された記号になる、ということは先ほど示した。それではつぎの例においては「くだらない」笑いが起こるだろうか。教室で隣に座っている男性が、ムキムキマッチョでサングラスをかけているボーボボにそっくりな方だとしよう。だが彼は精神障害者の方だということを君の友達が授業中に教えてくれる。しばらくして、彼が突如として立ち上がり「鼻毛神拳奥義!怒りのポリスメン!」と叫んだとしたら、「くだらない」だけの笑いは起こるだろうか。僕はとても怖い。「くだらない」だなんて笑うことはできない。心配したり、慰めてあげようと思うだろう。同じことをボーボボがして、僕が笑うことができるのはそれがこちらになんの危害も加えない非実在のキャラだと私たちが感じているからだ。そこにはなんの細かいバックボーンも想定されておらず、私たちを殴ったり、刺したり、もしくはボーボボが血を流したりするということもない。だからこそ、僕たちはそこに「くだらない」可笑しみだけを感じる。

   

   そして何よりボーボボが笑いの爆発を生む要因は、その非論理的非常識なギャグがほとんどなんの疑問もなく作品世界に受け入れられ、その増していく受容のスピードの勢いであると思う。僕たちの世界とボーボボたちの作品世界がただ単にズレているだけでなく、その意味不明なズレがなんのためらいもなくものすごい速度で受け入れられていく様に圧倒されると共に、その勢いに笑ってしまう。

 

 続いてボーボボの「くだらない」笑いと似ているようでいて、大きく異なる例を紹介しよう。遅刻寸前のあなたが最寄駅から目的地まで全速力で走っている。息も切れ切れで、背負ったリュックの中の筆箱がけたたましく跳ね回っている。と、あなたはずっこけて荷物が全部ばら撒かれてしまった。ガードレールにノートがぶつかり、風にあおられてバラバラと空に向けてページがめくられる。あなたは慌てて荷物をかき集めようと屈んだとき、道の向こうから歩いてきた女子大生と思われる人と目があった。一部始終をみていた彼女はフフフフッ!とあなたを見て笑った。あなたは冗談じゃないよ、とすこし機嫌が悪くなったけれど、彼女はすぐにその笑いの色をふっと消して、申し訳なさそうに人混みに消えていった。彼女は恐らくこう思って笑ったのだろう。

「あの人あんなに急いでずっこけたよ。私ならあんな真似はしないのにな」誰でも経験する朝のワンシーンだ。

 先ほどの「純粋」と「安全」という要素において、この事例はボーボボの笑いと同じだ。彼女があなたを笑ったのは、目の前でずっこけた青年を「慌てるあまりずっこけたドジな青年」としてのみ捉えたからだ。言い換えれば、その経緯や詳細を想像する前に、青年の様子から抽象された要素を笑ったのである。彼女が目の前でメガネを割った青年を見て笑った後、笑い続けることなく一拍開けて笑みを消したのはそれが「かわいそう」であったり「どうするんだろう」という思いやりの声が、うちから湧いてきたからではないだろうか。と同時に、この目の前の青年が自分を見つめていることに気づく。「やばい、怖い人だったらやだな。何か言われるかもしれない」という攻撃への不安も湧いてきたのかもしれない。一目みて怖いという感情が先行した場合、一拍あける間も無く笑いが消えるときもある。その人が、全身刺青だらけだったり、右手にナイフを持っていたり…。きっと彼女はフッと笑い止むどころか、慌てて目を背けるだろう。

 次に先ほどの笑いには際立って含まれていなかったと思われる要素、つまり「あんな真似はしない」という声を考えてみよう。笑っている女子大生ところんだあなたの関係は、ころぶという行為があなたの体を傷つけると同時に動きのぎこちなさを示すとすると、ぎこちなさや不用意に自分の体を傷つけることを敢えてしないという選択肢をとれる女子大生にとっては、「あなたは劣っていた」と考えられる。ころんだときの気恥ずかしさは、そう思うからこそ生じるのではないだろうか?

 

  一方では常識とは異なる行為が異なる世界の中で受容していくスピードにおいて笑いを提供し、また一方が常識とは異なっている行為が自らの世界の中で優劣の関係において受容される様を笑う。この二つは全く異なっている。前者は相手どる異質な作品世界の行為が、こちらの世界の常識に隷属せず独立して存在している。後者は相手どる異質な他者の行為を、こちらの世界の常識で飲み込んでしまう。

  驚くべきことに、これらが出会い得る場所が存在する。その一つがモノマネだ。君の友達がボーボボの真似をして君を笑わせるとき、彼は敢えて非常識で馬鹿げた真似をしている。このとき彼が笑われると想定しているのは、ボーボボの真似と共にそんな馬鹿げた真似を敢えてしている彼自身である。つまり笑う人(あなた)と笑われる人(ボーボボ・友達)と笑わせる人(友達)という関係で分類すると、あなたが笑っているのはボーボボと友達であると考えられる。ボーボボはあなたにとって「純粋」で「安全」で「異なっている」だろう。しかし、敢えてボーボボの真似をしている友達は、一拍おけば「純粋」でも「安全」でも「異なっていない」同じ立場だ。ここが「くだらない」と笑うときに注意しなければならない点だと僕は思う。彼は現実世界において、その行為が「純粋で」「安全で」「異なっている」という約束のもと笑いを提供しているのであって、その行為を一般的倫理観から見て優劣の関係を当てはめてしまうことは、彼個人を排斥してしまうことになりかねない。彼は行為をしている間はそういったものから独立した者として捉えられねばならない。

 これとよく似た間違いを犯しやすいものの一つに風刺画がある。日本においては、やくみつる氏などが描いていることが知られている。政治家やスポーツ選手の行動を馬鹿にされるような形で面白おかしく描写する。言い換えれば、これはある出来事をその絵の中において「純粋」で「安全」で「異質な」ものにする。ただそれは絵の外においては「複雑」で「危険」で「同じ立場」にある人間がその出来事を起こしているという事実に注意を払わなければならない。先ほどの関係を思い出そう。笑われるのは絵の中の人間であるべきであり、実際にいる人間ではない。

   さてどうせなら「異質な」者たちは僕たちと同じ現実に存在しているのだから、それを馬鹿にするのではなく、独立した者であることを了解した上で、僕たちと彼らの差に笑ってしまうのはどうだろうか?この時どちらが優れていることも、劣っていることはない。なぜなら彼らは僕たちと同じ世界の住民でもあるからだ。優劣の笑いが相手を飲み込むことから生まれるのに対して、ボーボボの「くだらない笑い」は相手に驚かされ圧倒されて生まれるものだ。それはとても「くだらない」が少しもくだらなくなんてない、と僕は思う。優劣の笑いは一方しか笑うことはできない。しかし「くだらない」笑いは相手と共に笑うことができる笑いなのだから。

 

 笑いは時に、人をナイフの切っ先のようにチクリと刺す。突き立てられたナイフに笑いという大きな力が加わると、それは深々と肉に沈み込む。沈み込んだナイフは、骨を砕き、内臓を潰し、そして最後は心臓に届いてしまう。刺したのが思慮深い表現者であったとしても、それを沈みこませるのは僕たち大衆だ。笑いは一歩間違えば、僕たちと同じ立場の人間に大きな苦しみを与えてしまい得る。

 神は『ボボボーボ・ボーボボ』を笑っても、人間は「笑わ」ないだろうと思う。なぜなら彼は誰よりも賢いからだ。彼はきっと僕たちにただ微笑むのだろう。

 

(記者:saboten)

 

追記:もちろんボボボーボ・ボーボボは僕の説明だけでは捉え切れる作品じゃない。ぜひこの記事を見て、私はこう思うという人はsabotenに直接話すか、メールを送ってほしい。