《文学》死との約束〜推理小説だって文学だ〜


 一番好かれていて、一番嫌われているジャンル、というものがある。嫌われている、というのは、もしかしたら適切ではないのかもしれない。正確に言うならむしろ、軽んじられている、というのが正しいのであろう。

 そのジャンルは、映画化、ドラマ化される頻度が高く、わたしたちが小学生くらいから親しんでいるジャンルである。まあ、そんなにもったいぶっていったところで、タイトルのところに書いてあるのだから、もうバレてしまっているだろう。そう、推理小説である。何を隠そう、わたしKEBABがそれこそ小学生くらいから愛してやまないジャンルであり、一度は、推理小説を書いていたこともある。

 

 今までなんども、わたしの友人、それも文学に親しんでいる類の友人が次のような言葉を口にした。「推理小説って、所詮は犯人でしょ?」と。また、推理というと、なんとも子供じみた、(殺人が起こるせいだろうか)趣味が悪いものである、というような表情を浮かべた人も何人もいる。いわゆる純文学というやつが好きな人々は、なぜか、推理小説を軽んじる嫌いがある。あんなものは文学じゃない、そうとでも言いたげだ。

 一方で、推理小説が好きな人も、推理小説は所詮犯人で、謎解きで、トリックだ、というように思っている人は多いと思う。犯人がわかるか、わからないかが大事で、自分を騙すような推理小説は絶賛される。だからだろう。推理小説の帯には必ずと言っていいほど、「騙された!」「あなたはきっと騙される」「ラスト30ページの大どんでん返し」のようなことが書いてあるのである。

 だが、わたしはそれだけではないと思うのである。

 

 もちろん、推理小説に、謎解き要素がなければ、それは推理小説ではなくなる。

 推理小説の業界では「フーダニット(Who done it?Whodunitとも):誰がやったのか)」「ハウダニット(How done it?Howdunitとも):いかにしてやったのか)」「ワイダニット(Why done it?Whydunitとも):なぜやったのか)」の三要素が推理小説を形成すると言われている。「意外な犯人」というのは一番目の「フーダニット」を重視している作品であり、「トリックはこれだ!」という感じのものは二番目の「ハウダニット」を重視している先品である。「ワイダニット」を重視するのは、東野圭吾の一部の作品(ガリレオシリーズは基本的には「ハウダニット」だ。ただし、『容疑者xの〜』などは「ワイダニット」であろう)、松本清張の作品などの、映画化されたとすれば、キャッチコピーが「この夏、あなたはこのかなしき真実に涙する」というような作品である。

 この三要素は、それぞれどれか一つを重視すればいいものではない、とわたしは思う。「フーダニット」や「ハウダニット」だけでは推理小説がパズル化してしまい、それこそ「騙すこと」「犯人」だけを重視する、純文学好きが「どうせ推理小説は〜」と語るものそのものになってしまう。要するに、薄っぺらいのである(あえて誤解と論争を恐れずにいうと、エラリー・クイーンはこちらよりではないか。第四の壁を超え、読者に「さあ諸君、犯人を当ててみたまえ」などというのは、パズル以外の何物でもない。なにせ、小説にメモ欄までつけているのだ。世界中のエラリーファンの皆さん、失礼しました。悪気はないんだ)。話に深みを持たせるのは「ワイダニット」だが、こちらを重んじすぎると、話は重苦しい、暗い、精神に突き刺さり続ける代物になりかねない。それがいいという人もいるかもしれないが、推理小説の娯楽性というものをあまりに損いすぎはしないか。

 だから、三つの要素がちょうどいいバランスで書かれた推理小説こそ、非常に面白いのである。なんだ、それじゃ、やはり謎解き要素だけなんじゃないか、と言われるかもしれない。いや、そうではないのだ、とわたしは答えたい。この三つがちょうどいいバランスだと非常に面白いが、それにもう二つ、ちょっとしたエッセンスを付け加えた時、本当に上質で面白い推理小説が完成するのである。そこまでくれば、わたしは自信を持って、純文学と肩を並べる、文学ジャンルのひとつとして推理小説を紹介できると思っている。

 

 そんな完璧な推理小説をいくつも発表した推理小説作家がいる。その人は「ミステリの女王」と呼ばれ、聖書とシェイクスピアの次に読まれている作家と言われ、彼女の作品は本国英国だけでなく、世界中で映像化されている(ついこの間は三谷幸喜がドラマ化していた)。優れた「三要素」のバランス、そして二つのエッセンスも見事に加えられた彼女の作品は、どれも名作と言っても過言ではない(ただし、長編の名手であり、短編は長編用の実験作だったり、構成が甘い作品だったりするので、あまりお勧めはしない)。そう、彼女の名前はデイム・アガサ・メアリ・クラリッサ・マローワン(旧姓:ミラー)。誰のことかわからないって? じゃあ、一般に有名な名前で言おう。アガサ・クリスティー。

 

 アガサ・クリスティーと聞いて何を思い浮かべるだろうか。

 オリエント急行? アクロイド? それから「ナイルに死す」? もしくはエルキュール・ポアロか、それともミス・マープル? ついこの間までNHKの海外ドラマ枠でやっていたから、トミー&タペンスを知っている人もいるだろうか。あるいは何も知らない人もいるかもしれない。名探偵コナンの阿笠博士の語源だということを知る人もいるのかもしれない。

 彼女の作品は、謎解きメインだと思われがちだ。特にベルギー人探偵のエルキュール・ポアロのシリーズでは、毎回最後に関係者全員が集められ、「ムッシュー、犯人はあなたです」と推理が披露されるものだから、そう思うのは無理もないし、もちろん、そういう側面はある。バランスだ。フーダニットやハウダニットもしっかりと重視しているのである。

 しかし、彼女の真意はそこだけにあるのではないという気もする。

 事実、彼女は何度となく、「一番犯人らしくない人が犯人というのは変なことです。一番犯人らしい人が犯人なのです」と、「騙された!」と満足感を表すミステリファンにとってはありえないようなことを登場人物に語らせている。それに何を隠そう、幾つかの彼女の作品では、本当に犯人が、初めから疑われていた人物だった、というパターンが何度かある。彼女の作品の魅力は、犯人当てゲームに終始せず、その動機、そして登場人物の心理状態にまで入り込んで行くところなのである。それは、純文学でも同じようなことが起こるのではないか?

 

 わたしが先ほどいった、推理小説に必要な、もう二つのエッセンスというのは、ユーモアとヒューマニズムである。英国人だからかはわからないが、クリスティーは作品の中でユーモアを忘れない。『象は忘れない』という作品を静かな部屋で読んでいたら、出てくるジョークに次ぐジョークのせいで笑いそうになって、こらえようとして死にそう(いや、殺されそう、か)になったという経験もあるほどだ。

 そして、先ほど、登場人物の心理状態に入り込んで行く、と表現したが、彼女の作品には鋭い人間観察がある。アガサの若かりし頃、近所に住んでいた作家のイーデン・フィルポッツは彼女の作品の添削をして、「君は会話の観察に優れている」と言ったらしい。確かに、彼女の小説に出てくる人間はリアリティに溢れている。人間がそこにいる。パズルの道具ではなく、実際に彼女の小説の中でいき、笑い、怒り、恋をし、恋敗れ、悲しむ人間がいるのである。それはきっと彼女の深い人間理解によるものだろう。だから彼女の作品は、本当にリアルなのだ。誰一人として、のっぺらぼうではない。ほとんど全員が人格を持ち、濃いキャラクターを持っている。といっても、濃すぎることはない。そして、そんな人間たちの群像劇の中に、アガサなりのメッセージも込められている。それはアガサが心のうちに持っている、はっきりとした倫理観だったり、時にアガサの問いでもある。

 わたしがかねてから、彼女の作品で面白いな、と思っているのは、事件が解決した後の人々の行動である。普通、事件が起こったら、爪痕を残しそうだが、クリスティー作品では普通の生活が再び戻ってくる。みんな普通に、新しい生活へと移っていくのだ。しかし、もしかするとそれがリアルなのかもしれない。人間の力強さはそこになるのかもしれない。それが彼女の人間理解であり、もしかすると、倫理なのかもしれない。

 

 だからだろう。彼女は推理小説作家であると同時に、他のジャンルのものもよく書いているのだ。例えば、冒険小説、スパイ小説、歴史小説、そしてメアリ・ウェストマコットというペンネームで執筆した恋愛小説……(ここまでの多才さはシェイクスピアに匹敵する)。ジャンルだけではない、彼女の作品は、物語の舞台も多様なのである。彼女が二度目の結婚でマックス・マローワンという考古学者と結婚したこともあり、物語の舞台は英国だけでなく、中近東やヨーロッパ諸国など実に多岐にわたってるので、読者を旅に出た気分にもさせてくれる。とにかく、彼女の作品は、ユーモア、人間、フーダニット、ハウダニット、ワイダニット、いろいろな舞台、ラヴストーリー、冒険物語……と様々なものによって成り立っており、彼女の作品を謎解きの一言で片付けるのはあまりに乱暴だろう。

 

 人間理解、を根底に置いた彼女の書き方は、物語の構成にも影響を与えている。

 例えば、「相棒」を思い出して欲しい。あれもよくできたドラマ作品だが、大体、まず殺人が起き、警察が呼ばれ、捜査が始まる。それで犯人が明らかになる(最近では少し違うが、ご容赦いただきたい)。この流れは、ほとんどの推理小説に言えることだ。映画でも、ドラマでも。だが、アガサ・クリスティーはこの流れにこだわらない(この流れの話も多いけど)。

 ここで一冊の本を紹介しよう。『死との約束(Appointment with Death)』というクリスティー作品だ(ピーター・ユスチノフ、ローレン・バコール、キャリー・フィッシャー(レイア姫)で映画化もされている。『死海殺人事件』。だがあまり評判はよくないようだ。わたしは見たことがない)。舞台は現在のイスラエルとヨルダン。当時は英国の委任統治領だったはずだ。話は名探偵エルキュール・ポアロがエルサレムのホテルで、「いいかい、彼女を殺してしまわなきゃいけないんだよ」という声を聞くところから始まる。だが、主人公はポアロではなく、サラ・キングという女医であり、基本的に彼女の視点で物語が進む。しかも特徴的なのは、ハヤカワ文庫でp156まで事件が起こらないことである。

 

 こういうパターンは、他にもアガサの作品には幾つかある。『ゼロ時間へ』、『終わりなき夜に生まれつく』などがそうだ。彼女の関心は人間の観察にあるから、事件よりも、事件にいかにして至るのか、その流れの観察が重視される。そのため、ずーっと事件が起こらないまま、話が小説の半分くらいまで続いて行くことになる。これに、謎解き目的で読み始めた人は面食らい、飽きてしまうことがある。だが、彼女の魅力はそこにこそあり、そしてその強烈に長いマクラが、彼女の推理小説の出来栄えにも関わってくるのだ。

 特に、この『死との約束』は、それが顕著である。トリック、犯人、動機も優れていながら、最初の「第一部」を全て使って人間観察のシーンを語ることで、深みとリアリティを出している(といいつつ、実はわたしはこれを読んだのがかなり前で、犯人が誰なのか覚えていない。それでもこの作品にこんなに満足感があるのは、「所詮犯人」ではないからではないだろうか)。とはいえ、一応推理小説なので、これ以上の説明はやめておこう。なぜ、「ちくちく」の回にこの小説を紹介したのか。それも、ぜひ読んで、その「謎解き」に挑んで欲しい。「なあんだ、そんなことだったのか」とは言わないこと。

 

 アガサ・クリスティー。

 彼女は優れた「文学者」である。そして上質な推理小説作家である。だから、推理なんて、と軽んじている人々もぜひクリスティーを読んで欲しい。きっと、見方が変わるはずだ。推理小説だって文学だ、とそう思えるだろう。推理小説が好きな人は、やはりミステリの女王なので、一作品くらい読んでもバチは当たるまい、ぜひ読んで欲しい。

 推理小説なんて、なんてもう言わせない。

 

(記者:KEBAB)


主な参考文献

数藤康雄 編『アガサ・クリスティー百科事典』ハヤカワ文庫

ミステリの女王 アガサ・クリスティー(1890~1976)。画像はWikipedia英語版より。
ミステリの女王 アガサ・クリスティー(1890~1976)。画像はWikipedia英語版より。