シクシクとした 耐えられぬ 痛み


我慢をしすぎることはよくない。誰にも相談できないことであればなおさらだ。
デンマークの天文学者ティコは、友人の晩餐会で小便を我慢しすぎたことが原因で、膀胱が破裂し死亡した。彼は学生時代に留学生を煽り、決闘を申し込んだ挙句に鼻をそぎおとされ、それ以来真鍮製の義鼻を装着していたそうだ。宙を飛ぶ自分の鼻を見て、ティコがなにを思ったかは想像するしかない。だがその痛みを乗り越えた自分が、まさか小便を我慢したことで命を落とすとは考えてもみなかったろう。

なぜわれわれは特定部位の痛みを恥ずかしいものだと考えるのだろうか。かの司馬遷もその一人だった。
時は2000年以上前の中華。漢の第七皇帝武帝は、建国以来の最大のタブーと戦うことを決心した。当時中華の北には匈奴という騎馬民族が暮らしており、彼らは度々漢に攻め入り略奪行為をはたらいていた。漢建国者の劉邦も匈奴の前にはなすすべもなく大敗し、毎年金銀財宝を贈ることを引き換えにかろうじて停戦状態を保っていた。生まれつき血が上りやすく自信家であった武帝はそうした漢の現状に憤り、即位してすぐに対北方民族のためだけの役職をつくると、幾度となく無茶な派兵を繰り返した。
しかし土地勘も弓の腕も上の匈奴にそうそう勝てるわけもなく、あるとき派兵部隊の一人の李陵将軍が匈奴に捕らえられてしまう。この知らせを聞いた武帝は激怒し、李陵将軍の一族郎等を皆殺しにするよう命じる。これを真っ向から非難したのが、当時歴史を編纂する業務を担当していた一官吏の司馬遷である。沸騰していた武帝の怒りは、こうして司馬遷へと向けられることになった。
実を言えば、この司馬遷という男は武帝にそっくりな性格をしていた。よく怒りよく笑い、論敵を論破することを何よりも好んでいた。元々武帝への批判的な進言をする気は微塵もなかったが、実際に皇帝の御前で媚びへつらう高官を何人も見ているうちに、強い憤りが司馬遷の中からふつふつと湧いてきてしまったのだ。
司馬遷は死を恐れてはいなかったし、歴史家という仕事柄、直情的な人間が悲惨な最期を迎えることも知っていた。来るなら来い、殺したければ殺せと思っていた司馬遷は、自らに与えられた刑罰を聞いて絶句した。宮刑と呼ばれるその刑罰は、はじめ睾丸の根元を紐できつく縛られ、続いてその状態で延々と走らされる。するとうっ血した睾丸が腐り落ちてくるのである。
司馬遷は、勇猛果敢な者には英雄にふさわしい死が、臆病で卑怯な者にはじめじめとした痛みを伴う死がまっているのではないかと心のどこかで思っていた。それは誤りであった。痛みとはどれもじめじめとまとわりついてくるものにほかならなかったのだ。
宮刑を受けてから司馬遷は歴史書を書く機械と化して、他者との一切の交流を辞した。会議に現れる彼の姿を見たものは、その化石のような姿に恐怖し話しかけることすらできなかったという。結局、司馬遷は「史記」を書き終えてからしばらくして燃え尽きるようにしてその生涯をとじた。
以上は中島惇『李陵』によるものである。中島敦は生まれながら身体が弱く、かっ血と喘息に悩まされていた。中島敦にとって、痛みとは誰にも理解されない隔絶された感情であって、共感という行為では、決して癒されるものではなかったのかもしれない。
しかしながら、どのような痛みも恥ずべきものではないはずである。痛みを恥ずかしいと思うことは、その痛みを閉じ込めようとすることだ。より一層じめじめとした痛みはつのるだろう。


睾丸痛は限られた人間だけが味わうものではない。非ウイルス性で睾丸痛を引き起こす慢性前立腺炎の治療において日本はヨーロッパにくらべあまりにも理解が進んでいない。これは、タクシードライバーや塾講師など長時間の座位を強いられる職業につく男性が多く抱える病だ。詳しい原因や治療法は分かっておらず、十数年痛みに苦しむものもいる。
こうした事実を知ってもなお、われわれは睾丸痛をばかにするだろうか。シモの痛みをばかにできるだろうか。勇猛果敢な英雄も、大胆不敵な経営者も、筋骨隆々の格闘家も痛いものは痛いのだ。
痛みを持つ本人が、痛いと言うことを恥ずかしいとおもうような時代は20世紀までにしたい。

非細菌性慢性前立腺炎についてはこちらをhttp://merckmanual.jp/mmpej/print/sec17/ch240/ch240c.html
(記者:saboten)