《エッセイ》本当の世界は裏道にある〜ブンダウ、あるいはサイゴンの思い出〜


バックパッカーの溜まり場、喧噪のブイヴィエン通り。
バックパッカーの溜まり場、喧噪のブイヴィエン通り。

 旅をする時に見逃してはならないのは心のざわつきである、といっても過言ではない。その「ざわつき」にはいろいろな種類がある。例えば、どこか安全で何処が危険かを察知する「ざわつき」。これがうまく働かないと、事件に巻き込まれて死亡、という非常に不名誉な履歴書をもって閻魔大王の前に出るはめになる。だが、わたしがここで書きたいのはそういう類いの「ざわつき」ではない。むしろ逆でなにか面白そうなことを発見する「ざわつき」だ。これがうまく働かないと、もし独りで旅をしていたとしても、無難な旅行で終わってしまうだろう。

 

 それは今年(2016)の二月にヴェトナムはホーチミンを歩いていた時のことだった。わたしは友人と二人でヴェトナムを旅していたわけだが、その時の宿泊地は「ブイヴィエン通り」という通りにあった。この通りはバックパッカーのたまり場であり、その名の通り(?)「ブイブイ」いわせている、という感じの喧噪と夜遊びの通りである。バーが建ち並び、夜になればその中から「ズットンズットン」というクラブミュージックが漏れ聞こえてくる、いやあふれてくる、と言っても過言ではないほどの音量で流れている。飲食店の前では客引きがメニューをもって待ち構え、世界で一番古い職業の女性たちが道ばたに立っている。コーカソイド、ネグロイド、モンゴロイド……様々な人種の人々が行き交い、そんな喧噪の中をバイクとタクシーがクラクションをならしながら突っ込んでゆく。それでいて、事故は起きない。

 

 ホーチミンは大都市だった。わたしたちの旅程は「ヴェトナム縦断弾丸空の旅」とでも名付けられそうな五日間の旅である。北部にあるヴェトナムの首都ハノイにまず入り、それから中部の世界遺産の街ホイアン、それから南部の大都市ホーチミンへと南下して行った。訪れたこれらの三つの街の中で、ホーチミンはかなり異彩を放っている。というのは、ハノイとホイアンは伝統が息づいており、ハノイにはそれに旧宗主国のフランスの建物と社会主義国の風格が漂っていたのだが、ホーチミンはというととにかく栄えており、伝統ではなく経済発展、社会主義ではなく資本主義の街だったのである。

 ご存知、事実上1945年から1975年までの戦乱を経て、ヴェトナムは社会主義の国となった。今は80年代中頃に始まった「ドイモイ(刷新)」政策によりそこまでゴリゴリの社会主義ではない。何せサークルKやバーガーキングがあるほどだ。しかしハノイでは街中に、赤地に黄色い「鎌と鎚(=)」の旗がたくさんなびいていたり、議会や市庁舎やホー・チ・ミン主席の墓などが真四角の社会主義っぽさのある建物だったり、道路のいたるところにプロパガンダポスターとスローガンが掲げられていたりして、道を歩けば「ああ、わたしは東側(共産圏)にいるんだな」と実感したものだった。だが、ホーチミンは違う。もちろん(?)、いたるところにプロパガンダとスローガンはある。上の方を見つめる兵隊と労働者の絵と、おそらく「共産主義とは電力である!」のようなことが書いてある赤い看板。だが、町並みが明らかに資本主義、というか西ヨーロッパ風なのである。まず、道がでかい。ハノイでは細い路地をバイクが駆け抜けていたものだが、ホーチミンでは広い道をバイクが川のように流れる。おかげで道を渡るのには一苦労である。そして建物が、さすがヴェトナム戦争中にアメリカの傀儡政権だった「南ヴェトナム」の首都だ、というほどに欧米的で整っている。まるでイタリアかなにかにいるかのようだった。そしてそして、ハノイででかい看板と言えば共産党関連だったのに、ホーチミンでは企業の看板の比率が増えた。「ホーおじさん万歳!」から「コカコーラがあなたをハッピーに」になってしまっている。

 ハノイには「路上食堂」「路上カフェ」がよくあった。道を占拠するように風呂にある椅子のようなフォルムの赤や青のプラスチック性イスが並べられ、コーヒーを呑んだり、何かを食ったりしている。そんな光景がホーチミンには少ない。ほこらも少ない。ハノイでは少し歩けばすぐにほこらがあって、ウスターソースににた香りのお香を焚いていて、地元の人たちが祈っている。だが、ホーチミンにはブランドショップこそあれ、ほこらは少ないように思われた。

 ヴェトナムの素朴な部分が全部どこかに言ってしまったようだった。ホーチミンの街はでかくて、発展していた。そこは、あの仙人のような髭を生やしてボロいシャツをまとって笑顔をたたえるホー・チ・ミン主席の名を冠してホーチミンシティーと呼ぶよりも、サイゴンとかつての資本主義国の首都の名前で呼ぶ方がどこか適切なようにも思えた。サイゴン。現地の人もこの街のことをそう呼ぶそうだ。その方が正しいのだろう。

 

 わたしはそれがなんとなく寂しかったのである。ハノイにはあった現地人の暖かみと言うか、現地人の生活のようなものが一気になくなってしまったように見えたのだ。素朴さがなかった。特に、わたしのホテルのそばはバックパッカーのたまり場。ブイブイ言わせるブイヴィエン通りである。現地人の生活は一切見えてこない。

 ホーチミンに着いたのが夜六時だったため、本格的な街歩きを始めたのはその次の日からだった。大通りであるレロイ通りを歩くと、そこはもはやヨーロッパだった。途中で観光用バイクタクシーのおっさんたちに話しかけられ、成り行きでのることになった。おっさんたちは日本製の橋などを魅せてくれたり、中華街チョロンの市場を案内してくれたりしたが、どうも「旅している」感覚になれなかった。その後、おっさんたちと分かれてから、わたしたちは自分たちの足で歩いてみた。しかし、歩けばすぐに知っている通りに出たり、おっさんたちと来た観光地に着いたりしてしまう。そうではなく、もっと現地人の生活感があるところが見たいのだ。そう思っても、目の前に広がるのは西欧風のきれいな通りでしかなかった。

 

 夕食時になって、わたしたちは再びあの喧噪のブイヴィエン通りへ戻った。小腹が空いていたので、とりあえず昨夜に見た繁盛していそうな麺料理の食堂に入り、軽く腹の減りをすました。これがヴェトナム最後の夜だった。わたしは友人に言った。

「もっとディープな、繁盛している店を探そうよ」と。ホーチミンもといサイゴンの現地人の生活が見てみたかった。どんなものを食べるのか。どういう風に食べるのか。食事にはその国の人の生活がしみ出てくるはずだ。

 ブイヴィエン通りを歩いてみたがやはりらちがあかない。うまそうなものもあったにはあったが、どうしてもバックパッカーだらけである。友人と「客引きのいる店には入らない」という戒律を作ったため、ブイヴィエン通りは駄目駄目だった。そこで途中で曲がって、歩いていると、真っ暗な路地が左手に見えた。真っ暗だが、テーブルが並べられ、屋台があり、ヴェトナム人らしき人たちが何かを食っている。ブイヴィエンと違って静かである。ざわざわした。ここで曲がらずになんとするか。わたしたちは曲がってみることにした。

 

 そこには二件の屋台があった。なぞの赤い飯を焼いているところ。何かを焼いているがまだ客が入っていないためによくわからないところ。現地人や、おそらく「お仕事」前の女性たちが何かを食っている。だが、どうもその赤い飯はそそらなかった。「引き返そうか」ということになったが、わたしはその路地のもっと奥の方になぞの「ざわざわ」を感じたのである。などと言うと、食堂探しのプロのようなので、正確にいおう。店っぽいものと、そこから人っぽいものが少し見えていたのだ。

 その店は緑色の内装で、ヴェトナムにしてはこぎれいなテーブルが並んでいた。満員だった。非常に気になったが、根が臆病なもので、わたしたちはとりあえずその道を引き返して別の通りを回ることにした。

 その後なぜか日本食の店がならぶ通りにいってしまったり、お通夜を路上食堂でやっている光景を目の当たりにしたりしたが、どうもわたしの心の中ではあの繁盛している食堂がざわつき続けていた。ずっと引っかかっている。「なあ、あの食堂に戻ってみないか?」

 

 その食堂はやはり込み合っていた。わたしは一人しかいない店員に向かって、

「ハイ・ングイ!(二人です!)」とつたないヴェトナム語で話しかけ、席に着いた。よくわからないので、周りを見回してみる。ほとんど全員がざるのようなものにのった肉団子なのかなんなのかよくわからないものを食べている。よし、これにしよう。だが、名前がわからない。そうこうするうちに店員が何かを話しかけてくる。余談だがわたしはヴェトナム人に似ているらしい。多分現地人だと思ったのだろう。わたしが「ん?」というような顔をすると、彼は「マジかよ!」というような半ギレの表情になってメニューをよこした。「このくそ忙しい時によりによって外国人かよ!」とでも言いたげだ。

 わたしたちはとりあえず一番上のやつを頼んだ。一皿を二人で食べる形式だ。一皿65000ドンだから、一人分は百五十円ほどである。日本の文化なら自動販売機のソフトドリンクと同じ値段だから安く感じるが、ヴェトナム的には少々お高い。飲み物はビール。ヴェトナムには薄い「333(バーバーバー)」、濃いめで一番ポピュラーと見受けられる「ビア・サイゴン」、ハノイの「ビア・ハノイ」なんて銘柄があるが、この店のビールはオランダ産の「ハイネケン」だった。まあ、この方がリアル現地人の生活なのかもしれない。そのハイネケンを、氷がいっぱい入った非常に軽量のジョッキに注いで呑むのがヴェトナム式である。

「ヴェトナム最後の夜に。ヨー(乾杯)!」とわたしは気取って言ってみた。

 

 そのざるに載った料理はブンダウと言うらしい。日本のヴェトナム料理屋では見たことがないのだが、どうだろう。ざるに笹の葉のようなものを置いて、その上に厚揚げのようなものと豆腐をあげたもの、ミントや正体不明の葉っぱなどの香草類、そして固まった麺をぶつ切りにしたものが載っている。食べ方がわからなかったので、食堂にいたスギちゃんにいた感じのお兄さんと食べ方を観察したら、どうやらそれらを醤油につけて食べるらしい。さっそくやってみたが、これがなかなかうまいのである。豆腐をあげたやつはとくに、中の豆腐が日本のものとは違ってゆるめであり、噛むととろっとしていてうまかった。葉っぱを単体で醤油につけて食べるのはいかがなものだろうと思ったが、なかなかイケる。

 そして一番驚いたのが固まった麺だ。説明が難しいのだが、例えばこう想像してみて欲しい。あなたはそうめんを作っている。そうめんをゆで、柔らかくなったら皿にのせる。そして食卓に置くのだが、そのタイミングで世界を救わなければならなくなったとする。急に命令が届いて、とにかく、世界のどこかで悪い奴らと戦わないと行けない。あなたはプロだからそれをやってのける。そして帰ってきてそうめんを食べようとする。そうしたらもちゃっとしていて、そうめんが固まっているではないか! という時の状態のそうめんを想像して欲しいのだ。それが、このブンダウの麺である。形状もそうめんに似ている。そんなくっついて固まった麺を一口サイズにぶつ切りにする。そしてそれを醤油につけていただくのである。するとどうだろう。うまいのだ。ひょっとすると、ただそうめんのように食べるのよりもうまい。このような活用法があったとは驚きである。

 店は繁盛していた。わたしたちが食べている間にも、どんどん客が入れ替わってゆく。途中で二階から大勢の人が出てくる場面もあった。それを若女将と、わたしたちを応対してくれた青年だけでまわしているのだからすごい。そんなにぎわった世界で未知の料理ブンダウを食べている。現地人の中で。そうだ、そうなんだ、わたしは頷いた。これがやりたかったのである。

 

 本当の世界は裏道にある。それをこのブンダウ食堂が教えてくれた。サイゴンにも確かに人の生活があるのだ。そう思うと、もっと長くサイゴンの街を歩いてみたかった、と少し残念にも思われた。だからわたしは、またヴェトナムに来よう、そう誓うのであった。

 

追記)このときはブンダウがホーチミン(サイゴン)の食べ物だと思っていたが、後で調べたら、北部料理らしい。それもハノイだという。ホーチミンでは最近北部のブンダウがブームなのだという。だから、あれほど繁盛していたのである。


(記者:KEBAB)

ブンダウを食べた路地裏の食堂。青年ウェイターと若女将だけで切り盛りしている。
ブンダウを食べた路地裏の食堂。青年ウェイターと若女将だけで切り盛りしている。