《文学》食べて旅して〜檀一雄『美味放浪記』〜


 それは偶然の出会いだった。

 季節は秋、わたしはたまたま電車で一時間ほどの距離のところまで行くことになっていた。家を出て気がついた。本を持ち出すのを忘れたのだ。わたしは本をもって電車に乗るのが習慣になっている。だから本がないとなんだか寂しいのである。そういうわけで、わたしは本屋へと向かった。家に戻るのも面倒だったし、もってくるはずだった本はもう読み終わりそうだったからだ。

 そこで手に取ったのが、檀一雄の『美味放浪記』だった。檀一雄といえば、坂口安吾、太宰治とならぶ「無頼派」の作家であり、女優の檀ふみの父親としても知られている。わたしの中では退廃的な生活を送った文豪のイメージがあったので、彼が『美味放浪記』なんていうグルメな旅行記を書こうとは思いもしなかった。後々になって、檀一雄は料理が好きで、『檀流クッキング』などという本も著していると知るが、あの、『美味放浪記』を手に取った時はグルメと旅と檀一雄はわたしの中ではギャップがあったのである。だからこそ、買った。割と分厚かったが、買ってしまった。

 

 檀一雄の『美味放浪記』は二部構成である。第一部は日本各地のうまいもんを食い歩く話、そして第二部は世界各地のうまいもんを食い歩く話だ。とにかく、うまいもんを食い歩くのには変わりがない。それだけと言えばそれだけだ。だが、それが非常に楽しいのだ。

 例えば、「海外編」の方で紹介されているモロッコの話。一時期ポルトガルに住んでいた檀一雄がモロッコまで小旅行をする。そこでのエネルギッシュな市場の様子や、うまそうなケフタという肉団子(トルコ料理ではキョフテと呼ばれる。わたしも食べたが、不思議な弾力のある食感と、ラムの香りが非常に最高である……ああ、食べたくなってきた)を高級レストランや大衆食堂で食べた話……思い出すだけでも胸の奥が「ざわざわ」してくる。その描写が何とも優れているのだろう、読んでいるとまるで自分もモロッコにいるような錯覚を起こしてしまう。それで、読み終わってしばらく経ってから、実際は自分は満員電車に揺られていたんだと気づいた時には残念でたまらなくなる。そして、「くそ、絶対モロッコ行ってやる!」となるのである。

 「日本編」も負けてはいない。特に最初に紹介されている土佐のニロギ、ドロメなどという魚を料理したものの話だ。わたしは魚より肉が好きで、とくにモロッコ編で紹介されていたような肉を串刺しにする系の料理には目がないのだが、これを読んでいた時はさすがのわたしも「こういう豪快な魚が食べたい!」と思ったものだ。そして魚料理とともに興ざれる酒の数々。実際はコップ酒だとか、ビールとか、こったものではないのだが、これがうまそうなのだ。読んでいるこっちにまで、魚を焼くスモーキーな香りと、酒の匂いがやってくる気分がしたものである。

 

 ところで、わたしは旅するのが好きだ。だから前回のエッセイコーナーにはヴェトナムの話を載せたし、今回も実際の体験談も混ぜた小説を載せている。

 わたしを最初に旅に駆り立てたのは沢木耕太郎の『深夜特急』だった。わたしはこれを読んでどこかに独りで乗り込みたい、と思ったが、予算面もあり、わたしの最初の一人旅は函館だった。私は幕末の歴史が好きなので非常に楽しめたし、朝市に行くなど、そういった楽しみも覚えた。だが、食事だけはなぜかあまり楽しめず、「一人だと寂しいな」と感じていた。その後ローマで夕食を独りでする機会があったが、なんとなくぎこちなくなっていた。『深夜特急』の沢木さんも、一人旅で困るのは食事だ、というようなことを述べている。あの哲学者カントだって一人の食事は健康に悪いと言っていたらしい。食事は独りでするもんじゃない。大勢いないと楽しくないのだ、そう素朴にわたしは思っていた。

 だが、檀一雄はそれを覆してきたのだ。『美味放浪記』もそうだし、他にはわたしがヴェトナムの旅にもって行った『漂蕩の自由』もそうなのだが、非常に楽しそうなのだ。檀一雄は語学ができるわけでもなさそうだし、友だちが海外にたくさんいるわけではなさそうなのに、食事が楽しそうなのだ。市場を「ほっつき歩き」、込み合っている店に入る。そこでなんとか注文し、で、食べる。うまい。そんな単純なことがわたしにはあまりできていなかった。

 わたしには店に入る前に躊躇してしまう癖がある。人がたくさん入っていたら、「席がないかもしれない」だとか、人が少なきゃ少ないで、「まずいのかもしれない」と躊躇してしまう。実は、独りよりも大勢で食べた方がいいと思うのは、大勢でいる時は入る前にあまり躊躇しないからかもしれない。ただの正当化である。それでどれだけ損をしてきたか! 檀一雄の紀行文を読むとそんなことが思いやられる。檀一雄のように旅をしたい。そう、強く思うのである。

 

 どうして自然と店にすっと入れないのだろう? わたしが元来臆病であることを差し引けば、それは世代もあるのかもしれない。何でもかんでも世代のせいにするのはよくないが、わたしたちの世代(1990年代生まれ)はシステマティックなファミレスやチェーン店やファストフードに慣れている。そういうところではわけのわからない料理に出会うことは少ないし(スタバは別だが……)、なんとなく安心感のうちに食事ができる。店内もきれいだし、回転も速い。そうなると、見知らぬ土地に行った時になんとなく路頭に迷ってしまうのである。ここに入るべきか、入ってまずかったらどうしよう……なんていうどうでもよい考えに取り憑かれてしまう。入ればいいのだ。自分の感を信じ、人のたくさんいるところに座ってみる。メニューを前にして悩んでしまうのも悪い癖かもしれない。とりあえずとなりの人が食べているものを注文すればいい。そうすればきっとうまいものにありつけるはず。それがうまくできないからこそ、わたしはそう思う。

 それを、『美味放浪記』は教えてくれた。いうならば旅の教科書「食事編」である。今の非サバイバル世代にこそ、この本は手に取って欲しい。これを読めばきっと、汚らしくて人がたくさんいる、どこかの大衆居酒屋に入り込みたい、市場を冷やかしたい、そう思えるに違いない。

 

 さて、わたしだが、ヴェトナムとタイを旅してみて少しだけ成長したような気がする。以前より店にずかずかとは入れるようになったし、オーダーも早い。いろいろなところにあれから言ってみて、まずいところもあったが、うまいところもあった。世界が広がった気がするし、とにかく、以前よりは冒険しているような気がする。檀一雄が背中を押してくれて、旅がわたしを成長させた。もっといろいろなところに行けば、どうわたしは変わるのだろう。それも一つの旅の醍醐味だとわたしは思っている。

 

(記者:KEBAB)

勇気を持って現地人の行く店へ入ろう。そうすればうまいもんが必ずあなたを待っている!
勇気を持って現地人の行く店へ入ろう。そうすればうまいもんが必ずあなたを待っている!