《エッセイ》ブレイクノース トゥ シンガポール


 たびに行く前にぼくは必ず遺書を書く。ケガをしなかったことがないからだ。年始は毎年おみくじで大吉を引くが、去年は3回も救急車で運ばれた。今年は運のいいことにまだ0で済んでいる。そんなぼくの「もぐもぐ」体験には、もちろんケガがしばしば関係してくる。

 

 学校の研修旅行でシンガポールを訪れた時のことだ。シンガポール空港からのバスを降りて、最初のレストランでぼくは鼻骨を骨折した。当時ぼくは感覚を鋭敏にしようと朝飯は抜き、昼食はカロリーメ○トですませていた。その日も、機内食のパンひとかじりとカロリーメイトふたかけらを口に放り込んだだけだったので、軽い貧血状態に陥っていた。今覚えばただのバカな行動だったが、その時は本気で職業詩人になりたいとおもっていたので、空腹状態でへんに頭をさえさせて、行き先不透明の自分を安心させていた。バスのなかで筆者は、空港付近のシンガポールの風景が東京のそれに酷似していることから、ここがじつは東京某所ではないかと仮説を立てた。われながらものすごい発想力である。筆舌に尽くしがたいとんまだった。

 仲の良かった友人に「死後、私の蔵書をすべてきみに譲渡する」という手紙を残し、ぼくは体育教師、ガイドの三人でそこからもっとも近い総合病院に向かった。主治医のリュー先生は、とても朗らかな方で研修中に階段から落ちたと片言の英語で伝えたところ(なんとガイドが英語をしゃべれなかったのである)、君の鼻はシンガポール産になるわけだと冗談を言ってくれた。もう夜中だったので、手術をすることもできず、日が昇るまでは鼻から出てくる血と鼻水まみれになりながら、たったひとりでベッドに腰掛けていた。横になると呼吸が止まってしまうので、寝ることもできず、ひたすら朝が来るのを待っていた。

 朝になると浅黒い肌をしたナース(給食のおばあさんや横断歩道に立っているようなタイプ)がぼくを手術室に運んだ。手術室はものすごく明るかった。やわらかい緑色の壁が白い蛍光を反射させるせいで光に包まれているようだった。

 全身麻酔がとけて目を覚ますとベッドの上だった。顔は包帯でぐるぐる巻きにされていて、目以外は動かせない。かろうじてその日は横になることができた。

 

 ぼくの病室は4人の相部屋だった。病人一人一人に大画面の液晶テレビが与えられていたが、しきりのカーテンを誰もつかわなかったことと、残りの3人が大音量で視聴していたことで、部屋は小さいクラブのようになっていて、わざわざ点ける気は起きなかった。ベッドは廊下側に二つ、窓側に二つ配置されていて、ぼくは窓側だった。廊下側の二人は中華系の男性で、もうひとつの窓側の主はアラブ系の男性だった。窓からはオーチャード通りという繁華街がぼんやりとみえていたが、目が悪かったので、病院の貯水タンクばかりが目についた。

 病室での生活は単調だった。寝て、起きて、点滴をして、また寝る。狭い病室で隣人に気を悪くされたら困るので、3人とは会話を交わすことはなかったが、お見舞いに来た人々のことはまじまじとみつめてしまった。中華系の人のお見舞いはほとんどが子供たちだった。たけのこのようにいつのまにか二人のベッドを囲い込んで、目を離すといつの間にか消えていた。子供たちはかわるがわる男性になにか話しかけていたが、男性はただ無表情のままテレビの画面を見つめていた。そんなにおもしろそうなニュースではなさそうだった。

 アラブ系の男性はいつも決まった時間になるとナースの助けを借りて床に正座し、メッカへ祈りをささげていた。そのときはさすがにほかの二人もテレビを消していた。彼はお祈りをしたあと、なぜだかぼくに会釈をしてくれた。きっと相当ひどい恰好だったのだろう。あれは憐みの視線であったと思う。

 いつまでもほかの病人を眺めているわけにもいかないので、ぼくは貯水タンクをひたすらみつめていた。うでを動かせるようになると、ベッドのそばにおいておいたメモ用紙に貯水タンクを写生していた。筆者の美術成績はどの年代においても下の下だったので、デッサンはめちゃくちゃだったが、誰にもみられていないと考えると存外絵を描くことも悪くはないなと思った。

 

 結局鼻は最終日まで完治せず、他の生徒たちとは空港で合流する運びとなった。そのころには包帯もとれ、自分の姿を鏡で見ることができた。顔のバランスが崩れていないか怖かったが、かさぶたと血糊がついている以外は、けがをする前と同じ形のようにみえた。体育教師から6日分の着替えが入ったリュックサックを受け取り、スケッチを病室の隅にある共用のくずばこに投げ入れようとしたとき、近くで声が聞こえた。あのアラブ人だった。

 アラブ人は近くで見ると、顔中にじぐざぐと深いしわが刻み込まれているのがよく見えた。右の頬には特大のいぼがあり、老人特有のかわいた口臭がした。彼はバナナを一本持っていた。黄緑色のバナナだった。筆者はあわててわきによけたが、彼はくずばこにバナナを入れにきたわけではなかった。ぼくに渡しに来たのだ。

 バナナを受け取り、背負っていたリュックサックの中にいれた。空港にはタクシーに乗って行った。タクシーの運転手は日系で、ぼくと教師になんども話しかけてきた。

 「シンガポールは初めてか」「ああそうだ」「暑かったろう」「ずいぶんこたえたね」「なにをたべたんだ」「いろいろだよ」「いつもはこんなに道はすいていないんだ。お前たちは運がいい」「そうなんだ」「たのしかったかいシンガポールは」

 楽しかったよ。といってぼくはタクシーから降りた。

 待合所でバナナをリュックサックからとりだした。慌てていれたせいでバナナは2つに折れていて、一方はつぶれていた。ぼくは、形のきれいなやつの皮をむいてたべた。7日ぶりの固形だった。悪くなかった。

 

(記者:saboten)