《小説》本当の味がする


 夏でもパリは寒い。現地人がダウンにマフラーで歩いてやがる。暦の上ではオーガスト、でも気温は十度以下、なのだからたまったものではない。

 わたしがフランスの首都パリに降り立ったのには理由があった。すべてのものには理由がある。今回のフランス上陸の理由というのはある人に会うためであった。その人というのはある女優だった。名前を明かすのは差し控えてKとでもしておこう。上品な顔立ちと物腰、そしてその卓越した演技力によって有名になっている彼女とあうことになったのは、非常に残念なことに取材のためだった。パリで男女が会うのだからそこにはロマンスの一つや二つあってもいいようなものだが、これは単なる仕事にすぎないのである。新作映画についての他愛もないインタヴューだ。
 彼女は先にパリについていた。モデルとしても活躍している彼女はパリで撮影の真っ最中だった。多忙なスケジュールになんとか都合を付けてもらって、インタヴューをすることになっている。わたしはわたしで東京の方でどうしても外せない用があったため、彼女のパリ入りから遅れること三日後の八月末日にパリに到着したというわけである。

 シャルル・ド・ゴール空港からパリ市内へは電車に乗った。日本では手動式のドアの電車は奥多摩か群馬かと言ったようなものだが、パリではいきなり手動である。グリーン車のある列車の如く座席は半地下にある。地面にはゴミが落ちている。わたしは自分のザックを抱え込んでイスに座った。ボックス席だったため、フランス人に囲まれて座る形になってしまった。となりにはスマホをいじるアラブ系とおぼしきお兄ちゃん、目の前には白人の老夫婦と言う布陣だ。さて、どうしよう、話しかけるべきか、と十時間ほどのフライトで疲れきった脳細胞を必死で働かせていると、
「ヴヴネドゥウー?」と目の前にいる赤ら顔のじいさんが話しかけてきた。正直、何を言っているのかがわからない。だが推理を働かせよう。明らかに外国人観光客の出で立ちのわたしに現地人が書ける言葉は一つしかない。わたしはとりあえず、
「ジャパン」と答えてみた。おじいさんはニコニコしながら頷いた。正解だったらしい。

 しばらく相手はフランス語、わたしは中学英語でなんとか会話がつづいた。パリの見所が知りたかったので、わたしは「流暢」に「えーっと、えーっと、ワット、パリース、グッド? グッドプレイス? グッドシング? なんだっけ……ああ、ボン?」と聞いてみたが、おそらく老人は「食事」と答えていた。おじいさんの連れ合いのおばあさんも頷いていたし、となりのアラブ系の兄ちゃんもたどたどしい英語で、「ウー、ラ・フランス・ハヴ・テースティー・フーズ……ウー…トライ・シルヴプレ」というようなことを言っていた。とにかく、はずれはなさそうである。そりゃあそうだ。フランス料理と言ったら世界三大料理の一つだし、日本で「フレンチ」といったらおいしいおしゃれな料理のイメージがすっかり定着している。そういえばこれからインタヴューするKさんはパリには結構訪れるらしいからどこか紹介してもらって、そこでインタヴューというのもいい。食事は人間関係を円滑にする、インタヴューも楽しげになる。そんなことを考えているうちに、列車は「パリ北駅」へと到着したのであった。

 パリ北駅を出ると、まずは多くの詐欺師がカモを探している「カモスポット」であるロータリーがある。そこを横目に駅沿いに北上してゆくとインド人街がある。もっと北に行けばアラブ人街、アジア街がある。治安が悪い界隈だとも言われるが、わたしはこうして文化が錯綜している場所が嫌いではない。フランスの町並みにエネルギッシュなアジアの同胞たちが働いたり飲み食いしているのを見るのは痛快ではないか。そんなこともあって、わたしのホテルはこのそばにあった。中国語でホテル名が書かれているから「パリに来たぞ」感はないが、まあ駅近だから立地は悪くない。
 インタヴューは到着の翌日だった。それはつまり、初日は遊んで暮らせるということを意味している。ザックを置いて、貴重品をしっかり身に付け、部屋の鍵をかけ、わたしはパリの街へと繰り出した。午後四時。夏の欧州の昼は日本のものよりも長い。まだまだ一日は始まったばかりだった。

 時差ぼけや飛行機での疲れもあってコンディションはよくない。だが、わたしは大通りを歩いた。旅をする時は無理をしない方がいい、という人もいる。あながち間違いではないだろう。だがわたしはこう思うのだ。ホテルの外には新世界がある。全く見たことのない未知の世界が。多少の疲れでそこに入って行くチャンスを失いたくはない。
 とはいえ、寒い。日本を飛び出してきたとき、東京の気温は二十度後半だった。二十八度くらいだっただろう。正直、涼しくなってきたと思っていたほどだ。それなのにパリは十度以下と来てる。ホテルを出るとき、もってきた防寒具を全部重ねて着た。それでも寒いのである。
 道を歩けば、ひときわ目立つのは緑色の看板の「ファルマシ(薬局)」だ。この国では薬局はキャバレー並みのネオンと電飾をつけるらしい。しかも、数メートルおきにあるものだから、フランス人の薬局好きにはあきれてしまう。数メートルおきにある、と言えばパン屋もそうである。いわゆる「おしゃれなパン屋」が日本のコンビニレベルで出没する。一瞬、そこでクロワッサンを買うという名案を思い付いたものの、あまりおなかがすいていなかったのでやめた。
 パリの町並みは確かに美しかった。建物はグレーとブルーが基調になっており、日よけはレッドである。そんなおしゃれでクラシカルでシックな場所がパリにはいたるところにある。はじめはスマホを取り出して撮っていたが、だんだんばからしくなってくる。なにせ、どこに行ってもすばらしい風景があるのである。

 だがしばらくほっつき歩いているとおなかもすいてくる。ここでわたしは思い出した。電車の中でおじいさん、おばあさん、それからアラブの青年に言われたことを。フランスにはテースティーフードがあるらしい。高級そうなところはKさんにまかせてわたしはわたしの懐事情にあった汚らしい食堂にでも行こう。わたしはそう思って、街歩きを「うまいもんハンティング」に切り替えた。
 とはいっても何処も入りづらいし、なんとなく高そうなのである。そうしてふらふらと歩いていたら、わたしは結局ホテルのそばに戻っていた。空は真っ暗で、車のライトと店からこぼれる光がまぶしい。これ以上うろついても路頭に迷うだけだ。わたしは目についた、繁盛していそうな店に入ってみることにした。中にはフランス人しかいないようだが、そういうところの方がうまいものを出すのだろう。

 フランス語はさっぱりでも、「アン、ドゥー、トロワ」くらいはわかる。「一、二、三」である。だから、「おひとりさま」は「アン」という単語を使うのだろう。わたしは驚異的な推理力を用いてそれを導きだし、店のギャルソンに「アン!」と言ってみた。背の高い、黒髪の青年ギャルソンは頷いて、テキトーに座れという風に手で合図をする。「テラス席は高い」という話を聞いていたので、とりあえず中に入った。寒かったせいもある。
 席に着くと、となりの席に座っている中年のフランス人が生ガキを食べていた。氷の上に載った生ガキを片手で手に取り、チュルッと口の中に投入する。その度にその男はにっこりを笑う。そこまでうまいのか。「生ガキには気をつけろ」と旅立つ前に何人もの人から言われたが、わたしは折角なので頼むことにした。ちょうど良くギャルソンがやってきたので、わたしはとりあえずとなりの席のカキを指差した。
「アー、ウィ、デズュイットゥヘー?」とギャルソン。わたしはとりあえず頷く。ギャルソンはまだなにか聞きたげである。「ムスィユー? ケスクヴビュヴェー?」
 首を傾げると、ギャルソンは少し考えて、ワインセラーを指差した。なるほど、一応わかった。飲み物だ。だが何を頼めばいいかさっぱりわからない。わたしはとりあえず、唯一知っているフランスワインの名を口にしてみた。「えーっと、ボージョレ」

 結論から言えば、そのカキはとてもおいしかった。生臭さがないわけではないが、そのつるっとした感覚と、程よい磯の香りが上にたらしたレモンとマッチした感じがすばらしかった。口の中に海が広がる。そしてすっと消えてゆく。一つ食べると次が食べたくなった。六つあったものを無言で平らげてしまった。やはり危険を避けていては手に入れることのできない幸せが存在するということである。よく考えてみれば、翌日はインタヴューなのだから、普通こう言うものはさけるべきなのだろう。しかしまあ、結果オーライということにしよう。
 赤なのか白なのかわからない状態でボージョレワインを頼んだが、ギャルソンは空気を呼んで白ワインをもってきた。それが正しいのだろう。なかなかうまい。わたしは白より赤の方が好きだが、白とカキは正しいコンビだった。赤だと、赤の渋みが強いため、カキの味を殺してしまうだろう。白はその点正しかった。
 フランス・ハヴ・テースティー・フーズ、か。まさにその通りだった。正直、カキとワイングラス一杯は少なすぎたが、他にどうやって頼んだらいいのかよくわからないので、わたしはこの店を出ることにした。この後何件かはしごすればちょうどいいはずだ。

 それからわたしは有言実行、何件かはしごした。コースを頼んだらつまらない、そう思ったので、わたしはワイン一杯ととなりの人が食べてるうまそうな料理を頼むことにした。ほとんどが正解の料理だった。鴨肉料理は正直少々固い上にソースが甘くてイマイチだったが、オニオンスープや魚のムニエルは最高だった。最後にホテルのそばのカフェでエスプレッソとクレームブリュレというプリンをあぶった料理を食べてその日の締めとした。ほんのりとした苦みのプリンと、ものすごく苦いコーヒーが口をさっぱりさせてくれた。正直この日の夕飯だけで四千円ほど飛んだのは痛手だったが、いい夜だった。翌日のインタヴューのコンディションはこれで抜群、のはずであった。

 古より、女性は待たせる生き物で、男性は待つ生き物だと決まっている。だから男は待たないと行けない。そしてわたしはルーヴル美術館の前に広がるテュイルリー公園の噴水を見ながら待っているというわけである。
 この場所は先方のKさんからの指定だった。噴水が吹き上がり、地面には砂利、周りには生け垣と、これが初夏の晴れた日だったらどんなにいいことか、と思えるような場所だった。だがあいにく、今は夏の終わりの曇っている日だった。涼しげな噴水は寒々とした気温と寒々としたグレーの空のせいで狂器でしかない。わたしは薄いコート一枚しかもってこなかった過去の自分に呪いの言葉を浮かべながら、手に息を吹きかけた。寒い。寒すぎる。手をこすり、摩擦熱であったまることを試みる己の姿は、さながら真冬の労働者であった。その貧しくて寒々しいと頃に一つ異質なものがあるとするなら、それは花束だった。女性に会うのだ。それくらいはしておきたい。それにしても寒い。

 目の前をちょうど六十七匹目の鳩が通り過ぎた頃、彼女はやってきた。もちろん、となりにはマネージャーがいた。マネージャーの方は埼玉にいそうな主婦に似ていた。一方、ぴったりとした赤いニット帽をかぶり、ベージュのロングコートに紫のマフラー、革の手袋をしたKさんはさすが今をときめく女優で、美しかった。スタイルもいいし、鼻筋が通っていて目はきりっとしているが、口元は優しげだ。まあ要するに、美しかったということだ。彼女はわたしのそばまでやってきて、わたしの名前を確認した。わたしは無言でうなずいた。寒かったからである。
「すみません、お待たせしてしまって。撮影が長引いてしまいました」とKさんは言った。
「いえいえ、今来たところですよ」とわたしは答えた。ちなみに「今」というのは「一時間」をさす秘密の言葉である。「そういえば……」わたしはベンチに置いてあった花束を持ち上げた。「Kさんに僭越ながらプレゼントです」
「ありがとうございます!」彼女はそういうとにっこりと笑った。笑顔になると目が細くなる。これが彼女の武器なのだろう。彼女は慣れた手つきで花束をマネージャーのおばちゃんに渡した。

 わたしたちはルーヴル美術館を突っ切って、町中に入ることにした。ガラスでできたピラミッドの前には、多くの人が寒そうに並んでいた。中国人たちは自撮棒を駆使して写真を撮り、イタリア人たちは大声でおしゃべり。ドイツ人は徒党を組んで、日本人は小声で何やら文句を言う。フランス人は無言で、イラン人の女性たちはヒジャブとベールで身を包んだ姿で身を寄せ合っている。観光地にくればよく見る姿だ。ルーヴルにも入ってみたかったが、Kさんのスケジュールもある。美術館と、敷地内でチェロを弾くお兄さんを横目に町中へと入った。
「お昼はここでどうですか?」とKさんが言ったので、ルーヴルのそばにあったビストロに入ることにした。なるほど雰囲気は良さそうだ。Kさんはモデルをしているから、パリには詳しいようだ。彼女の進めに従って行くべし。きっと昨日のものよりももっとうまいものが食えるはず。などと、わたしはよこしまなことを考えつつ、ビストロに入った。

「パルドン、ウィア・ノッ・トープンド・ナウ。ユ・キャン・ウェイ・ティンサイ・バッ・オルデール・イーズ・アフタ・トゥウェルヴ」

 入るなり、店主らしきおじさんがそういった。フランスの大統領に似ている。要するにまだ回転時刻ではないから、中に入ってもいいけど、注文は十二時にしてくれ、というらしい。さすがフランス人だ。絶対時間通りにやるとは、かなりの自信があるのだろう。期待は膨らんだ。その時は十二時一五分前だったし、外はかなり寒くなっていて、小雨すらふってきていたので、わたしたちは中で待つことにした。
「いやあ、寒いですね」とわたしは席に着くなりKさんに言った。いきなり新作映画について聞くというのはヘンだったからだ。
「そうですよね。本当に寒いです」と彼女は本当にいやそうに言った。「わたしは寒いのが苦手なんです」
「パリの夏はだいたいこんな感じなんですかね?」その辺は知りたいところである。もしイエスなら、もう夏にパリなんか行ってやるものか。
「そんなことはないですよ」彼女は少し考えながらそう言う。「今年だってわたしがパリに到着した時は暖かかったですし。あ、でも日本の夏よりかは全然涼しいです」
「じゃあ、ちょうどいいって感じですね」
「はい。そうですね。でも昨日くらいからこんな感じで、もう参ってしまいます……」
「ちょうど僕の来た日からってわけだ」
「Hさんのせいだったりして」Hとはわたしの名前である。
「さすが、察しがいいな」わたしがそんなことを言うと、Kさんは声を出して笑った。笑顔はわたしにとってインタヴューのつかみだったから、これはいい流れだぞ、と思った。
 さて、そんなどうでもいい会話をしていると、ウェイターがやってきて注文を取った。昼だったが、わたしたちはキールロワイヤルを頼んだ。そして、スープにはオニオンスープを、そして魚にはムニエルを頼んだ。

「じゃあパリにでも乾杯しましょうか」とわたしは言って、キールロワイヤルの入ったグラスを持ち上げた。Kさんもそれに従い、そして今まで影のように存在感を消していたおばちゃんマネージャーもグラスを掲げた。
「パリに! ソンテー」と彼女は言う。ソンテー。乾杯という意味だ。昨夜、わたしは酒場のようなところにも迷い込んだので、よく聞いた言葉だった。
「ソンテー」とわたしも言ってみた。キールロワイヤルはそんなに特別な味はしなかった。カシスの甘み、そしてシャンパンのアルコール感、である。

 オニオンスープにはバゲットを切って焼いたものが載っていた。いい香りだ。それに何より、暖かそうである。一口飲むと、悪くない、と思った。だが、二口、三口、と続けて行くうちに異変が起こった。味が異様に濃いのである。確かに体は温まる。だが、その引き換えに水分が失われてゆく。キールロワイヤルでなんとか流し込もうとするが、グラスの中の酒とオニオンスープの量の差は絶大である。
 Kさんは平然とスープを飲んでいる。これが普通のパリの味なのか? 正直飲んでなどいられないほどのしょっぱさだったが、ここにKさんが連れてきてくれた以上、どうすることもできない。それに、先ほどのいい流れを断ち切りたくはなかったのだ。だから、
「Kさん、白ワインでも呑みませんか?」と声をかけてみた。なにか呑みたかった。だが赤ワインではその渋みのせいで喉が渇く。だから、白ワイン。一種の作戦である。
「いいですね。銘柄はHさんに任せます」と彼女は言った。作戦に見事ひっかかってくれたわけだが、正直わたしは銘柄がわからない。おそらく、Kさんの方がよく知っているのではないか。芸能界で活動し、パーティにもでる人種と、雑誌の記者で飲み屋で焼き鳥生活を送る人間は違うのである。とにかく、ここは見栄をはるしかあるまい。
「エクスキュゼムワ、ディス・シルヴプレ? トゥーグラス」とわたしは英語なのかフランス語なのかわからない言語で、白を意味する「blanc」の下に書いてあったワインとおぼしきものを指差しながら言った。
「ビアンシュール」とウェイターは何やらグラスの白ワインをもってきた。命拾いした。

 Kさんによると、その白ワインはボルドーのやつらしい。わたしはそれをなんとかして彼女の口から引き出し、さもわたしがそれを知っているように取り繕った。
 ワインで薄めながら、なんとかオニオンスープを飲み終わったら、ムニエルがでてきた。バターのいい香りがする。
「おいしそうですね」とわたしは言った。そうですね、おいしそう、と彼女は言う。わたしはナイフですーっと切ってからムニエルを口に運んだ。バターの香りが口に広がった。だが、なんだろう。味がないのである。さっきのオニオンスープとは逆の現象だ。わたしはかつてイギリスの家庭に泊めてもらったことがある。そのとき出された料理は、このムニエルと同様に全く味がなかった。その家のお母さんの言葉が脳裏によぎる。「イギリスに来た人はみんな味がないって言うわね。あれはみんな好きな味って言うのがないから、それぞれで味付けできるように味がないのよ。ほら、塩をかけなさい。少しはましになるわ。まあ、ほうれん草のゆで加減はイギリス人がゆですぎちゃうだけなんだけどね」わたしはとっさにテーブルを見回したが、塩はなかった。フランス人はこの味のない魚を万人後のミスる味だと勘違いしてやがる。
 Kさんは至って冷静だった。真剣に食べていた。ここで文句を言うのは紳士のすることではない。わたしはぐっとこらえて、白ワインを呑みながら魚を食べた。味がない。何度やっても、味がない。おいしくないのだが、どうすることもできない。Kさんは普通に食べている。ここまでくると、わたしの味覚がおかしいのかもしれないという疑念すら思い浮かぶ。だが、確実にこのムニエルは味なしだった。正直こればっかりは、どうしようもない。先ほどのオニオンスープがあれば、相互補完し合って何とかなったものを、そう思っても、スープ皿は今はいない。

 結局なんとか食べ終わった。そしてコーヒーとクレームブリュレが出てきたのだが、昨日食べたものとは全く違った。まず、あぶりすぎで苦い。そのわりに、中が冷たい。そして今度は甘すぎる。口がかぴかぴになりながら飲んだコーヒーはインスタントの香りである。散々だった。そして何より散々だったのは、新作映画についてのインタヴューができなかったのである。どうするか、この後カフェにでも誘おうか。だが、おそらく彼女とわたしには味覚という壁がある。あんなものを平然と食べる女だ。きっとカフェを紹介してもらっても、同じことになる。なら、ホテルでインタヴューするんだった。何が、「食事は人間関係を円滑にする」だ。
 わたしはそんな憤りをおくびにも出さず、会計をした。この国では男が女性に驕るのが普通だ。だからわたしは出した。まあ、仕方がない。女優と一緒に飯が食えたのだ。とにかく、次はインタヴューに移ろう。わたしたちはにこにこ笑いながら外に出た。少し天気がよくなっていて、太陽すら出ていたが、胃の中は雨雲がたれ込めていた。

 セーヌ川のほとりを歩きながら、インタヴューははじまった。というか、始めることにした。彼女の新作映画は、Kさん演じる主人公が東南アジアを旅する映画だ。映画の最初の方では彼女は勝ち気で、強がってばかりいる。そのせいで恋も仕事もなんとなくうまく行かない。そんな中、ふとしたきっかけで彼女は東南アジアへ行くことになる。文化も環境も違う中で、はじめは腹を立ててばかりいる主人公は、最後には少し達観した視線をもつようになる。エンディングはオープンエンドで、イランに向かう飛行機に乗り込んで終わる。
 わたしは撮影のことなどを聞いた。文化の違うヴェトナムでのロケでの様子や、主人公になりきることについて、それからKさんの意気込みなどだ。彼女はテンポ良く、楽しげに答えてくれたが、なんとなく、わたしは気分が乗らない。食事がまずかったせいだろうか、なんとなく、彼女の返事は字面だけのような気がしたのだ。表面的で、面白みがない。本気で言っているのかわからない。顔はニコニコしているが、それは心から笑っているのではない。普通の記者ならそれでもいいのかもしれないが、わたしはなんだかそれが嫌だった。
 どうしたら心を開いてくれるだろう、と思った。だが、わたしは気づいたのだ。わたしの方が心を開いていなかったのかもしれない、と。それは料理がまずかったとき、正直に言わなかったことに始まる。わたしは今までの質問を遮ってこう言った。
「ちょっと気になっているんですけど、さっきの店の料理、どうでした?」

 沈黙があった。まずいことをしたかもしれない、と思った。彼女から笑顔が消えたからだ。心臓が鼓動する音が聞こえる。言わなければいいことを言った後、気まずい沈黙があると決まって聞こえる音だ。いつか女性に告白した時も聞こえた。
「すみません……あそこおいしくなかったですよね?」と彼女は頭を下げた。申し訳なさそうだった。わたしはふーっと息を吐いた。
「ええ、おいしくなかったですね」
 また沈黙だ。わたしはなんだかおかしくなってきた。だってばかばかしいじゃないか。そんなことで何でわたしたちは嘘を付き合っていたのか。わたしが声を出して笑うと、彼女は少し戸惑っていたが、しばらくして笑い始めた。原因不明の突発的爆笑伝染だ。わたしは笑いながら言った。
「あのスープ、塩辛すぎて何かと思いましたよ!」
「ムニエルは逆に味なかったですよね!」と彼女は笑いながら言った。なんだか楽しくなってきた。もうこの際聞いてしまおう、とわたしは思って、
「何であの店にしたんです?」と聞いてみた。彼女はなんとか笑いをこらえながら、
「すみません、わたしパリはよく来るんですけど、いつも時間がなくてマックなんです。だからよくわからなくて、ビストロっぽいところにしました。見栄を張ってたんです」と言った。
「そんなことか!」わたしは笑った。
「馬鹿ですね、わたし」と彼女は言う。
「いやいや、それくらいみんなやりますって。この際言いますけど、僕だって、さっきの白ワイン、テキトーに頼んだんですよ」わたしがそういうと、彼女は爆笑した。
「実はわたしの、このワインはボルドーですね、って発言もテキトーでした」なーんだ、そうだったのか。じゃあわたしたちはよくわからない店で、まずいものを食べながら、わけのわからない酒を飲んでいたわけだ。そう思うと、不思議と痛快だった。

 その後のことについて語ろう。数分間わたしたちは自分たちの罪を笑いながら告白し、再び歩き始めた。それからのインタヴューは快調だった。心を開いたからだった。見栄とか、そういうものを全部取っ払った状態で。それから日が暮れ始めたので、わたしは昨日のカキの店に彼女を連れて行った。マネージャーはカキを食べることに反対したが、マネージャーをホテルに帰すや否や、彼女はカキを食べた。いい口直しになった。わたしたちはしばらく飲食店をはしごした。汚らしい店にも行った。ヴェトナムロケの結果、彼女は汚い店にも入れるようになったといい、汚い方がうまいと話していた。それはフランスでも成り立つ理論だった。思えば、昼の店には客がいなかった。客は正直なのだろう。とにかく、いいパリの夜になった。いい思い出になったし、夕飯は、少なくとも夕飯は最高のものにありつけた。ワインとカキ、それからシチューのようなもの。なにかはわからなかったが、うまかった。ほろ酔いで楽しい話をしながら、わたしは彼女をタクシーにのせ、自らは自分のホテルへと戻った。相変わらず、看板が中国語だった。明日はパリの中華料理、なんてのもいい。

 一つ記憶に残っていることがある。それはKさんの言った言葉だ。彼女はシチューのようなものを食べながらこう言ったのだ。「見栄を張るのってたまにはいいけど、やっぱり自分の素で行かなきゃ駄目ですね。それって今回の映画の題材でもあるって思うんです。強がったり、ぶつかったり、自分を強く見せたりするのはそこまで悪いことじゃないけど、それに振り回されすぎると本当に大事なことは気づけない。それは本当の人だったり、本当の味だったりいろいろあるけど……楽しく生きるってことですよね」それから彼女はこう続けた。「このシチュー、本当のパリの味がします」

作:KEBAB
筆者KEBABの訪れた八月下旬のパリも雨が降りしきっていて極寒であった……そして、食べ物もおいしくなかった。だからこそだろうか、パリはまた来たいと思わせる街でもあった。寒かったが、人々が暖かい街である。
筆者KEBABの訪れた八月下旬のパリも雨が降りしきっていて極寒であった……そして、食べ物もおいしくなかった。だからこそだろうか、パリはまた来たいと思わせる街でもあった。寒かったが、人々が暖かい街である。